こんにちは★
歴史探偵(笑)よよちち🐨です🌟
いろいろな史料を調べたり、古文書の訳を読んだりしていたら、色々な発見がありました。
大河ドラマをすると新しい史料が出てきたりするので、今までの説とちがーーう!教科書とちがーーう!ってことがたくさんあるんですよね。
ということで、今回は、光秀生存説!!お坊さんになって超長生きしたのでは? のお話★
目 次
本能寺の変の後逃げ延びていた説
■忍法替え玉の術で追手を巻いた?
天正10年6月2日、明智光秀は本能寺の変を起こし主君織田信長を殺害した、という知らせが秀吉に届く。
軍をひるがえし(中国大返し)、京都府京都市大崎町で光秀と交戦します「山崎の戦い」。
光秀は押され、坂本城まで逃亡し籠城しますが秀吉軍に包囲されてしまったので、夜逃げを決行しました。
琵琶湖近くの竹藪で農民が竹槍急襲されたが、農民が検体に差し出したのは3体。
光秀とされる首の顔は、皮が剥がされていたのです!
つまり、誰だか確認できなかったのです。
🐨替え玉説!!
そもそも光秀は、薬草に精通し、知略・謀略にも長けていたので、忍術を学んでいたと考えれば、逃亡する時間稼ぎのために替え玉、変わり身、影武者を手配することなんてお手の物だったはず。
落ち武者としても、顔の皮を剥ぐ必要がないわけで。。。
光秀じゃないから、皮を剥ぐしかなかったのではないのか。。。??
■こっそり生きていた
約15.2㎞の道のりを、徒歩約3時間12分かけて、京都府京都市右京区花園妙心寺町の「妙心寺」へ避難します。
ここには叔父(和尚)がいたので立ち寄った。
ここで光秀は逃亡を諦めて自害しようとしますが、「死んでは駄目だ」と諭され自害は阻止されました。
しばらくして光秀は、大阪府貝塚市方面に行くと言い残し「妙心寺」を出発します。
約68.2㎞、徒歩約14時間超も離れた場所、大阪府泉大津市の「蓮正寺」にやってきました。
この境内にある「助松庵」で隠居生活を始めました。
🐨都会から離れたところで生活していた。。。死ぬことも考えていた。。。
つまりは光秀の最終目的が本能寺の変であって、自分が、天下統一とかは考えていなかったってことよね。きっと。
お坊さんになって家康に仕えた
■僧侶天海と明智光秀
その後光秀は、天台宗総本山比叡山延暦寺に身を寄せることになります。
延暦寺は、信長に焼き討ちにされた仇を、光秀が討ってくれたと感謝し優遇し迎え入れました。
光秀は名を長寿院にて「是春」に改め、剃髪し、仏教を学びました。
🐨お坊さんになったのね。
13階級の内上から4番目の大僧都(だいそうず)にまでなりました。
比叡山の文庫に「光秀」の名前がはっきりと記載されているそうです。
その後「天海」と名乗り家康に仕え、秀忠・家光にも色々と教示し、昔の名(明智)をどこかに残そうと思い、日光で一番眺めの良い場所を「明智平」と命名したと伝わっています。
慶長20年2月比叡山長寿院に光秀の名で灯籠が寄進されました。
🐨なんか、もうこれ光秀生きてるじゃん。。。って思えてきちゃうよね。。。
天海の活躍により徳川家は勢力を盛り返し、その影響力は日本全土に及ぶことになったのでした。
享年108歳。
🐨当時で考えると超絶長生き!!
光秀は、自分が起こした本能寺の変からの歴史をずっと見てきたのか?
そして、最後は徳川家が平和な時代を作り上げる手助けをしていた。。。
徳川家3代をしっかり支えて亡くなった。。。
光秀は麒麟を呼べたのでしょうかね??
歴史ってロマンあるよねーーー。
楽しくてたまらんです(笑)🐨
●調べてて面白かった情報など●
■都市伝説??童謡「かごめ かごめ♪」
♪♪かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀が 統べった
後ろの正面 だーれ♪♪
🐨これは誰でも知っている童謡ですよね。
- 籠の目 籠の目 → 六芒星を表す
1.岐阜(土岐)2.福井(明智神社)3.栃木(日光東照宮)
4.東京(江戸城)5.静岡(駿府)6.新潟(佐渡金山)
- 籠の中の鳥 → 光秀と同族の土岐氏 = 鳥 とり とき
- いついつ出やる = 光秀の復活することをさす
- 夜明けの晩 → 夜明けの尾張=日の出=日光=日光東照宮
- 鶴と亀 → 鶴=福井敦賀(つるが) 亀=京都亀岡
- 統べった → 光秀が統治した(敦賀と亀岡を亀山城)
- 後ろの正面だーれ → 出生地岐阜可児から、日光の方向を見た後ろ=本徳寺
※本徳寺・・光秀の肖像画に、出家して後30年超生きていたことがわかる歌が書かれている。
🐨よよちち、こういう都市伝説みたいなの大好きなの(笑)
信じるか信じないかはあなた次第です!!
■「本能寺の変」は誰が指示したのか
京都の「阿弥陀寺」には巻物が残っていて、そこには
「惣見院信長 為明智被誅」と書かれているそう。
この意味は、信長より上位、つまり当時の将軍義昭の指示により信長に処罰を下したということ。
「阿弥陀寺」の高僧・清玉上人(せいぎょくせいじん)は、信長の父・秀信の側室の子供なのであります。
🐨この清玉上人という人物は信長が本当の弟のように、かわいがっていた人物です。
その人物がいるお寺で見つかった史料なだけに、信憑性があるような気がするのであります!信長の遺体を持ち帰ったのも、この人物なのかも??しれません。
■秀吉による捏造書が発行された
秀吉は、光秀逆賊イメージ定着戦略のために、本能寺の変の4か月後『惟任(光秀)退治記』を書かせ公式発表しました。
内容は、真実ではなくて、秀吉に都合のいいように捏造されたものだったのです。
これを、当時発表することで、自分をヒーローにしたのですね。
🐨秀吉は、自分を威厳があるように見せたりする、自己プロデュースをどんどんします。
歴史を書き換えちゃうこともなんの躊躇もなくやっちゃう人なのです。
だから、現代では、「裏切者の光秀」というイメージが定着していますが、これは、秀吉による自分を良く魅せるための戦略で私たちは操作されていたのかも。。。
そう感じざるを得ません!!🐨
おわりに
本能寺の変で大謀反を起こし主君織田信長を討ち取ったとされている明智光秀。
その後、豊臣秀吉との戦いで負けて、逃亡する途中に竹やぶで農民の竹槍によって死亡したとされています。
信長の死体は持ち去られ、光秀の死体も見つからず、さらに動機も不明なので、その背景から戦国最大のミステリーとして様々な説が語られています。
真実は何なのでしょうかね・・??
近年新しい史料が出てきていますが、それでもまだまだ動機や真意については不明のまま。
もしかして朝廷や将軍、世間をも巻き込んだ、信長・秀吉・家康・光秀の全員による政(まつりごと)だとしたら、見事な戯けなのかもしれませんよねー🐨なんてね??
🐨ほかにも面白い人物たくさんいます♪大河ドラマでやってほしい人↓ベスト3✨