こんにちは★
戦国時代大好きよよちち🐨です✨
今回ご紹介するのは、「麒麟がくる」で、ユースケ・サンタマリア氏が演じていた朝倉義景。
いいとこのお坊ちゃまなのはドラマでも描かれていましたね。
優雅な生活してましたねーーー。でも。。。この義景の代で滅亡してしまうんです。。。
では、もう少し掘り下げてみていきたいと思います✨
目 次
朝倉氏の祖先には、日下部氏という皇子の子孫がいるので天皇家系ということになります。
ちなみに日下部氏は、平安時代の最強武士軍団リーダーでした。
画像:日下部氏家紋
一乗谷は戦国時代に築かれた印象ですが、実際には戦国時代より前の南北朝時代から、朝倉氏初代広景が足利将軍3大守護大名の「斯波氏※」に就職して、本拠地を福井県の「一乗谷」に移したのです。
※足利将軍3大守護大名は斯波氏、細川氏、畠山氏。
現代でいうと大手企業のグループ会社の部長として就職したイメージかな🐨
■文正の政変が戦国時代突入のトリガーになった
将軍足利家の幕府は、お家騒動や一貫性のない政策で統治力を失い、衰退していきました。
この頃の朝倉氏当主は、天下一の極悪人と呼ばれていた7代目猛将教景です。
そんな中、主君斯波氏の相続を、将軍と将軍の側近達が勝手に決めてしまったのです。
教景はこの決定に激怒し、将軍の側近達を襲撃し京から追放しました(文正の政変)。
※教景は代々名乗っている名前。教景→孝景と改名。
文正の政変をきっかけに、周辺大名(細川、山名、畠山、六角、富樫、小笠原氏)でもお家騒動や勢力争いが勃発。
やがて天下分け目の東西対決「応仁の乱」、継いで「明応の政変」が起こり、遂に天皇、公家、宗派、将軍、大名による戦の絶えない戦国時代へ突入することになったのであります!!
画像:7代 教景
騒乱の後、教景は越前(福井南部、石川県、新潟県)を平定し、主君斯波氏に代わり朝倉氏が守護大名に任命されました。
そして一乗谷は地形を利用した巨大な山城で、雪深さも相まって街に平穏が訪れます。
🐨都から少し離れて、すごく平和に暮らしてたイメージよね。
平穏の噂を聞いた公家、高僧、文人、学者、商人などが、荒廃した京から移住し人口は1万人を超えて京文化が発展し「北の京」と呼ばれました。
画像:一乗谷
10代目孝景※の長男として誕生。
この頃孝景は朝廷や幕府との関係を深め、朝倉氏の地位向上と勢力拡大、街の発展に尽力していました。
※7代目(教景→孝景)を真似て名乗っていた。
画像:義景
孝景が他界し16歳で11代目当主に就任(延景と名乗る)。
若い主君を支えたのは、先代から尽力してきた祖父朝倉宗滴。
「宗滴無しに朝倉氏の繁栄はなかった」と言われるほど優秀な武将で、政治や軍事の実務を宗滴が行っていました。
13代将軍足利義輝から、将軍の名前「義」を授かり朝倉義景と名乗ります。
その後、幕府管領細川晴元の娘と結婚して幕府との関係がより強固になりました。
いい感じだったのですが、その3年後宗滴が死んでしましました。
任せきりだった実務を義景が行うことになると、混乱が始まり、朝倉氏の歯車が狂い始めていくのでした。。。。🐨
画像:義輝
将軍義輝が三好氏に暗殺され、将軍の弟義昭が相続阻止のため監禁されました。
義輝の家臣(和田、細川、米田)から、義昭脱走の協力要請を受け計画を成功させます。
義景は脱走成功の恩を着せ、義昭に地元の内乱鎮圧や、周辺地域との和解交渉をさせ、散々利用したのです。
義昭は将軍就任のため、上杉謙信、義景などに「上洛」を要請しますが、謙信は地元の騒動鎮圧を理由に断ります。
義景は嫡男が急死してチャンスを逃すことに。。。
義景嫡男の死亡理由は「病死」となっていますが、「後継者争い」「上洛阻止」「三好氏を恐れていた」という背景から、毒殺(陰謀説)など諸説あります。
(「麒麟がくる」だと、上洛阻止するために毒殺されてましたね🐨)
ショックで義景は仕事を放棄し、家臣や親族に任せる様になりました。
結局のところ、将軍義昭と上洛したのは、「成り上がり者」と見下していた織田信長でした。
画像:信長
義景はダブルショックで、公家や商人と宴会、舞踊、茶、蹴鞠、俳句など豪遊生活を送るようになります。
豪遊中の義景に、見下していた信長から「俺の味方になれ」と要請。
ですが、断固拒否!
信長は、「義景は上洛要請に応じず、味方も拒否、あいつは将軍に敵意がある」と判断。
将軍義昭から朝倉討伐の許可をとり、信長は徳川家康と連合して侵攻。
しかし義景は戦を家臣達に任せ、相変わらず遊んでいました。
詰め甘①。浅井長政が織田軍を裏切り味方になったおかげで、一時的に信長家康軍を撤退させるのですが、肝心の追撃を豊臣秀吉軍に阻まれ、有力武将を討ち漏らすという大失態。
詰め甘②。義景が出陣しないので軍の士気が下がり、家臣と武士達は他国逃亡や織田軍へ降伏する者が増加。
詰め甘③。再び侵攻した家康軍の重臣榊原康政から奇襲を受け大打撃を負い、更に浅井軍の城が次々と攻め落とされ窮地に陥いってしまう(姉川の戦い)。
ところが運よく、信長&家康軍は三好氏討伐と石山本願寺討伐を優先し軍を引きました。
詰め甘④。義景&浅井軍は隙を突き、信長軍の重臣信治と森可成を討ち取りますが、肝心の逃げ道を信長軍に阻まれ、命からがら「比叡山延暦寺」へ逃げ込むことになりました。
信長から延暦寺へ「おまえら降伏して義景をよこせ」と要求があったけど、拒否!
信長から義景へ「直接決戦しようぜ」と要求されますが無視!
信長から「仲直りしようよ」と要求されOKし、義昭と公家の二条が立ち合い和睦が成立。
信長は、義景は必ず約束を破るという情報を入手したので、正親町天皇から終戦命令も出させたのです。
終戦命令文には、義景、浅井、延暦寺、石山本願寺の名が書かれ、反信長勢力の黒幕は義景と示されていたのです。
義景の豪遊は先代の築いた人脈を利用し反信長勢力を作って「信長ボッチ作戦」を計画していたのです。
その後、義昭を守った延暦寺は信長軍によって壊滅させられました(比叡山焼き討ち)。
画像:正親町天皇
やがて信長と義昭の関係が悪化し、義昭が信長包囲網に加わり、上杉謙信、毛利元就、石山本願寺、武田信玄、六角氏、松永久秀、三好三人衆という構成になりました。
🐨強力武将だらけです。。これは恐ろしいですね。。。信長大ピンチ!
信長家康軍が再び侵攻してきましたが、数で不利な状況だったため睨み合いで時間を稼ぎ、義昭に救援を要請しました。
要請を受けた義昭は隙を突き、信玄に出陣を命じます。
武田軍は信長家康軍を撃退し圧勝しました(三方ヶ原の戦い)。
さらに三河へ侵攻するため、義景援軍の到着まで待機する事にしました。
画像:武田信玄
薄情①。信玄が、朝倉義景に救援を要請。豪雪や兵隊の疲弊を理由に勝手に撤退。🐨勝手にって。。薄情ね。。。!
薄情②。信玄が、石山本願寺を通して救援を要請。義景無視。🐨よよちち大好きな信玄を無下にしやがって。。イラっ!!
薄情③。本願寺の顕如が、信玄救援を要請。義景また無視。🐨義景最悪!!!
武田軍は役割を果たしたのに裏切られてしまい、救援を待つ陣中で信玄が病死。。。
武田軍は退却。
🐨信長包囲網の要だった信玄の死で、包囲も王は崩れていきます。。。
信長&家康軍は、片腕切り落とし&本陣誘き出し作戦で、決戦を挑んできました。
「片腕の長政軍」は居城の小谷城を包囲され、猛攻撃を受け長政が窮地に陥ります。
長政危機の知らせを受けた義景は、家臣が罠だと助言しても無視して救援に出陣。
「本陣誘き出し」の罠にかかり、対峙してすぐ敗戦、すぐ撤退、すぐ追撃を受け、軍の大半は討死、逃亡や寝返りによりあっという間に朝倉軍は壊滅しました。
義景は真っ先に逃亡し、一条谷へ向かいます(残ったのは10名程)。
従兄弟の朝倉景鏡から「一乗谷へ戻るのは危険だ、親交のある賢松寺に隠れ、時を見て逃亡しなさい」と助言を受け、義景は賢松寺に身をひそめることにしました。
しかし!景鏡はこの時既に信長軍へ寝返っていて、罠を仕組んでいたのでした!!!
間もなく賢松寺は信長軍に包囲されて襲撃!
義景は自害。。。
一乗谷は三日三晩焼かれ廃墟になりました。
朝倉血族は殺害され、長く続き名門だった朝倉氏は滅亡します。
一方で味方していた浅井長政も、信長軍の降伏条件を最後まで拒否し、自害しました。
朝倉氏が平定した越前の城下町は「北の京」と呼ばれるほど発展した街でした。
現在は、唐門、朝倉館跡、庭園、武家屋敷、寺院、町屋、職人屋敷、道路などの街並みが発掘され、原寸大で復元され国の重要文化財特別史跡に指定されています。
🐨ここ、是非行ってみたいんですよねーーー
一乗谷朝倉氏遺跡←クリックすると飛べます🌳
庭園造り、流鏑馬、歌道、猿楽、絵画、茶道、茶器コレクターなど、義景は文芸を好み当時は最大級の豪華さだったと言われています。
🐨芸術面ではとっても優れた武将でした!お金持ちだったし、教養もあったのね。
朝倉氏初代広景が本拠地を一乗谷へ移してから、代々朝倉氏の拠点になりました。
7代目教景による文正の政変がトリガーになって、戦国時代へ突入。
その背景には、各地域の大名達は、朝廷、幕府、宗派に集中する金と権利に不満を持ち、大名の地元や庶民を貧困から救いたいが為にYESマンをやめて麒麟が来る時代を作りたかったのでしょう。
その結果、羽陽曲折ありながら豊臣秀吉、徳川家康により天下統一が成され、長きに渡り平和が訪れることになりました。
教景は時代の先駆者の一人ではないでしょうか。
教景とは裏腹に、本題の義景は格式やブランドにこだわり、道楽好きで、薄情で、悪口を言いふらし孤立させる、陰険な「お坊ちゃまいじめっ子タイプ」でした。
世間知らずの高枕といったところでしょうかね🐨
武将としては情報収集に疎く、求心力も無く、戦下手だったので、生まれる時代が早すぎたのかもしれません。
先代の努力も虚しくあっけなく滅亡しました。
🐨仕事できないけど憎めない奴って感じだったら、ちょっと違った結末だったのかもしれないなーって思いました。
🐨同じ時代に生きた戦国武将たちはコチラです↓面白武将たちを集めました💙よかったら合わせてご覧ください✨