こんにちは★
戦国時代が大好きなよよちち🐨です★
今回は、🐨よよちちが大好きな武田信玄の家臣「武田四天王」の一人馬場信春でございます。
「不死身の鬼美濃」と呼ばれる信春は、なんと!死ぬ直前まで傷を負ったことがないんだってーー!
武田信玄も好きなのですが、信玄を取り巻く家臣達が、またかっこいいのよねーーー💛
強くて男気がある人が多くて、武田家へのぶれない忠誠心が超かっこいい!!
強い絆で結ばれた武田家こそまさに「ONE TEAM」です!
だから、武田家は、殿様が、立派なお城に住まなくても人が守ってくれるから大丈夫☆というわけだったんだと思います🐨
「人は城じゃ・・・」by信玄
おっと、武田家の話になると熱くなってしまって、前置きが長くなってしまいました💦
今回は、その武田家3代を支えた武将 馬場信春の男気あるエピソードと武田家のために生きた人生 のお話★
目 次
※武田信玄の名前が「晴信(はるのぶ)」で馬場氏は「信春(のぶはる)」
混乱しちゃうので、晴信は「信玄」で統一して書いています。🐨よよちちも書いていてこんがらがってきちゃって。へへへ※
馬場信春は、1514年に教来石信保の子供として生まれ、今の馬場の名前をもらうまでは、教来石景政と名乗っていました。
教来石氏は、武田家の守護大名でした。
武田信虎(信玄の父)に従って、17才の時に初陣を果たしました。
信虎を追放することを決意した信玄。
その時信春は、板垣信方に従い、無血の追放に成功します。
今度は信玄に仕えるようになります。
武田信玄は、馬場信春という名前を与えます。
まず「馬場」という苗字。
実は、信虎(信玄の父)の時代に、家臣で馬場虎貞という人物がいました。
しかし信虎によって殺されて、馬場氏は断絶してしまったのです。
信玄は、「馬場」を復活させ、自分の名前「晴信」から「信」を与えて「馬場信春」という名前を与えたのでした。
このころには、120騎持ちの侍大将となって、主に先陣を任され次々と武功を挙げていきます。
信玄からの信頼も厚く頭角を現していきます!
信玄は、信春のことを「一国の太守にもなれる器量人」と言ったそうです。
戦をやらせてもOK、指揮をとらせてもOK、内政をやらせてもOKなマルチな武将なのです。
上杉謙信VS武田信玄
川中島の戦いは5回ほどありますが(最近6回目があったんじゃないか?という資料が発見されたらしい)、ほとんどがにらみ合いで終わっています。
武田家は、戦に「勝つ」ことが大事ではなく、「負けないこと」が大事という考え方でした。
だから、勝機がなければ、むやみに攻撃はしません。
1、2、3回目は、信玄得意の「山のごとし」をしてだんまりを決め込みます。
しかし、4回目の戦いでは、総大将二人が直接対決をするというドラマチックなことが起こった回なのでございます☆
通常は、総大将は、1番後ろにいて、(前にいる部下達に守られていて)最後の最後に出てくるものです。
何故、総大将の直接対決なんてことが起きたのか??
それは、武田家がピンチに陥ったからです!!
武田家がピンチになるというのは、滅多にない事です。
では何故ピンチになってしまったのか。。。??
それは、武田家の作戦が上杉家にばれてしまったからでした。
信玄は、軍師である山本勘助や、信春に相談します。
「どういう作戦で行こうか?」
「キツツキ戦法で行きましょう」
「OK!いいね」
と(こんな簡単ではないけれどね)、「キツツキ戦法」で行くことに決定しました。
この戦法は、軍を二つに分けて挟み撃ちをする作戦です。
武田軍は、作戦がばれないように霧が濃く出る日を狙って、夜のうちに1つ目の軍(信春率いる奇襲組)を山の上にいる上杉軍へ向かわせます。
もう1つの軍(勘助たち)は、本陣にて山の上から降りてくる上杉軍を待ち構えます。
しかし、霧が晴れると。。。
上杉軍が本陣に向かって攻めてきていました!
え??
武田軍は、半分以上の兵はまだ山の上にいる状態!
(山に向かった信春たちはもぬけの殻になっていてびっくり!!空振りに終わります💦ヤバイ!!あわてて本陣に戻るために下山します!!)
半分以下の兵しかいない武田軍に、大軍の上杉軍が迫ってきています。。。
武田軍は少ない兵で、山に向かった信春たちの部隊が戻ってくるまで持ちこたえようと時間稼ぎをしながら奮戦します。
もう総大将の信玄まで手が届きそうになるくらい上杉軍が迫ってきます。。。
そんな状態の中、馬に乗った謙信が信玄に向かって一直線に襲いかかってきたのです!!
信玄は、謙信の振り下ろす刀を、軍配(お相撲さんの行事の人が持っているやつ)で受け止めて
「お主、なかなかやるのう・・・」と言ったとか、言わないとか??
ひょえー!痺れるぜ!!🐨
ここで、軍師の山本勘助は、自分の作戦が失敗した責任を感じて敵陣に突っ込み討死します。。。
信玄の弟も討死。
みんなの命がけの時間稼ぎの中、山の上から降りてきた信春たちの部隊が合流して、上杉軍を追い払うことができました。(勝敗はお互いに自分たちが勝ったと言っている)
と、この作戦は敵にばれてしまって苦戦してしまいましたが、信玄が、作戦を考えたりするときは、信春に相談してしたりしていました。
信玄は、信頼する家臣たちの意見をちゃんと聞き入れる人物でした。
徳川家康VS武田信玄
この戦いは、徳川軍のことを無視した武田軍にムカついて、家康が戦を仕掛けたような感じで始まりました。
信玄は家康の行動(思考)を読んでいて、家康が追いかけてきたのを、振り返って攻撃!
このころの家康は、まだ若くてイケイケな性格だったのですね。
その家康の性格が災いして、この戦は武田家の勝利となりました。
(信玄の方が一枚上手でした★)
信春は、信玄の指示のもと、信玄の息子である勝頼と第2陣として戦い、勝利に貢献しました。
この時、徳川家康は、武田軍が怖すぎて、おもらししたらしいよ。ぷぷぷ(笑)
武田家の騎馬隊は、戦国最恐、最強でした★
この時家康をしつこく追いかけまわしたのが山県昌景です。
↓見てみてね✨
戦上手の最強武将??赤備え継承者「赤い悪魔山県昌景」をさくっと紹介★歴女★
この戦で、家康は、自分のせいでたくさんの犠牲者を出してしまった、と深く反省して、あの「タヌキジジイ」となっていくのであります(笑)
信玄が死んじゃったーーー( ノД`)シクシク…
病死してしまいました。
謙信は、信玄の死を深く悲しみました。そして信玄は、「何かあったら、謙信を頼りなさい」という遺言を残しています。
二人は本当にお互いを讃えあった「戦友」でした。
信春は、信玄の死後も引き続き武田家に仕えました。
徳川・織田連合軍VS武田勝頼
信玄の跡取り息子、勝頼が総大将となった長篠の戦いです。
勝頼は信玄お墨付きの「戦上手」でした。
信玄の死後も順調に勝ち戦を重ねて、領地を広げてもいました。
しかし、さすがに、徳川&織田の連合軍にはかなわないでしょう。。。と誰もが思うような戦ですが、
勝頼は「武田の騎馬隊が負けるわけないっしょ!」と余裕ぶっこいてました。
徳川は、織田家に援軍を要請したりして、最終的には、
徳川・織田連合軍38000VS武田12000という兵力差になりました。
武田家の百戦錬磨のベテラン勢は
「ここは、1回退陣しましょう。大きな損害がでちゃいますよ!」と勝頼にアドバイス。
しかし勝頼は
「戦うの!!戦え!!」と聞き入れませんでした。。。
(信玄と勝頼の能力の差ってこういう所だよねーー)
総大将がそう決めたのならば従うしかない。。。
ので、そうなったら、戦います!
信春は750の兵で、6000の兵と戦うことになりました。
え。。この兵力の差って普通にやばいでしょ。。。
そんな中でも、信春は武田四天王ですから、強い!!
どんどん敵を倒しながら進軍していきます!(スゲー!🐨)
あと少しで敵の大将に届くぞ!という所で鉄砲隊が出てきてバンバン撃ち込まれてしまい、兵が80ほどになってしまいました。。。
周りを見渡す信春。
もう、信春には先が見えました。
「逃げれるやつは逃げるのだ!あとは俺が何とかする!」と部下達に伝えます。
しかし、逃げる部下はいませんでした。
もう完全にヤバいと思った信春は、伝言を届けるようにと部下を勝頼の元へ送り込みます。
「このままでは武田軍は全滅してしまいます。信春が殿(しんがり)を務めますから、早く逃げてください!」
これを聞いた勝頼はやっと退陣を始めました。
信春は、「せめて勝頼様だけでも生きて帰さねば!!」と、勝頼を追いかける敵陣と戦いながら、1秒でも長く時間稼ぎをしました。
勝頼が無事に退陣したのを見届けた信春は、振り返って織田軍に立ち向かっていき、自らが盾となり、犠牲となり、自分の命と引き換えに武田家の総大将を守り抜きました。
61才でした。
※ちなみに、信春の死に関しては、切腹した説もあるんですよね。
信春は自分の部隊が壊滅したのを知り、切腹して、敵の川井三十郎に介錯させ、その首を差し出した、とも言われています。
この信春の闘いを、織田勢は「馬場美濃守比類なし」と賞賛したそうです。
信春は、敵までも魅了して、周りからは、あこがれの武士と言われるようになりました。
(このことで信春の娘は「俺の嫁になってくれー!」と、武将たちからモテモテになったらしいです🐨)
この長篠の戦いが、1万人もの犠牲者を出し、武田家が衰退していくきっかけとなりました。。。
この7年後に武田家は、滅亡してしまいます。
終焉の地へ行った記録はコチラにあります↓すさまじかったーーー
なんと、信春は70戦以上も戦に出ているのに、一度も傷を負ったことがない武将なのであります!!
しかも、先陣を任されることが多かったのに、です!!
「臆病者」というわけではないのです。
戦い方を知っているというか、先見の目があるというか。
とにかく冷静。無茶はしない。
それが信春の戦い方。
よよちち🐨は、信春の考え方には、信玄イズムを受け継いでいるのかな、とも思います。
「上に立つ人間が死んでしまうと、部下達が困っちゃうから、命を大事にしなさい」と信玄は言っていたので、その教えを守って、部下たちのためにも、常に冷静な判断をしていたのではないかな、とも思いました。
🐨信玄の格言集もあるよー↓こちら✨かっこいいよー信玄様💛
【武田信玄】戦国武将の考え方に惚れる!名言とエピソード★歴女になる!
信春の最期の戦となってしまった「長篠の戦い」でも、殿(しんがり)を務め戦っている時でさえも、勝頼が無事に退陣する姿を見届けるまでは、無傷だったそうです。。。
そこまでは、いつもの冷静な強い信春で、勝頼を無事に逃がすことができたと分かったら、もう自分の役目は終わって「盾になろう」と決めたのではないかな、なんて思うと涙がじわーーーー🐨(泣)
うーーー。
信春、なんてかっこいい男なんだ!!
※ちなみに・・・
他にも戦で傷を負ったことがない武将がおります。
それは、「徳川四天王」である本多忠勝であります!
本多忠勝は、ある日、自分で自分の指を切ってしまい、傷を負ったことで、引退を決意したと言われています。
🐨本多忠勝のお話はこちら↓✨
徳川四天王の一人本多忠勝の人生はドラマのようなエピソードがいっぱい!
今川家VS武田家の戦いで、今川のお城を落とした後の事です。
今川家ってお金持ち☆
信玄は、お城に残った財宝を持ち帰ろうとします。
「燃えちゃう前に財宝を運び出してねーー!」
と部下にも命令します。
それを見た「男」信春は
「信玄様、合戦の中で、敵の財宝を持ち帰るなんて恥!!後世まで笑い者になるから止めてちょうだい!!」
と信玄に忠告します。
すると信玄は
「信春のおっしゃるとおりでございます。恥をかかなくてすんだ。助かったよ。」
信玄は、ちゃんと人の意見を聞き入れて、自分が間違っていることはちゃんと改める性格です。
これで、二人は、より信頼関係を深めたそうです。
馬場信春という家臣がそばにいたことで、信玄はとても心強かったと思います。
🐨よよちちは、この二人の考え方って似ている所があるな、と思います。
信玄は「負けない戦」を望んでいました。
「快勝」することは必要ではなく「負けない戦」をし続けること。
🐨快勝すると人は油断したり、おごってしまって、「負け」の原因を作る、と考えていたのだと思います。
信玄は「負けないこと」をすごく大事に考える人だったので、信春のように「慎重に、落ち着いて物事を考えられる人物」は、信玄にとって意思疎通がしやすく、信頼できる家臣だったのではないかと。
ただ、息子の勝頼は、信玄とはちょっと違ったタイプの人物ですよね。
「戦が上手」過ぎて、順調に勝ち続けていました。
それで、信玄が恐れていた「油断」「おごり」が出て「負けて」しまったのではないかなーと思いました🐨
そして、人の意見を素直に聞けない人。。。
信春たちのベテラン勢の意見を聞き入れていればねー。よかったのにぃーーーー!
馬場信春は、最期まで武田家を守るために戦い、あこがれの武士、伝説の武士となったのです。
🐨武田家にかかわっている武将たちです🐨
⚔山県昌影(最恐「武田の赤備え」の大将)
⚔上杉謙信(武田家のライバルであり信頼しあった戦友)
⚔高坂正信(武田四天王で信玄がラブレターを送った)