こんにちは🌟
戦国時代大好きよよちち🐨です✨
今回ご消化するのは、秀吉に「蒲生氏郷に100万の兵を任せてみたい」と言わしめた優秀な武将!
蒲生氏郷です!!
戦も芸術もなんでもこなす優秀な武将です!
🐨よよちち的には、こういう上司っていいなーーって思う人物でもあります!
では、生まれからご覧ください✨
目 次
父は、近江六角氏の重臣、歌人としても有名な蒲生賢秀(がもうかたひで)の三男鶴千代(つるちよ)として誕生しました。
1568年13歳。観音寺城の戦いで六角氏が滅亡し、父賢秀は鶴千代を人質として信長に差しだしました。
信長は鶴千代の器量を早くから見抜きこう言いったのです!
「蒲生の息子の瞳は他者とは違う」と言いました。
教育係だった家臣・稲葉一鉄も「この子の行く末は百万の将たるべし」と称賛していました。
画像:織田信長
画像:稲葉一鉄
1569年14歳。
信長VS北畠の戦いに参戦。
家臣達が止めるのを拒み、たった一人で敵陣の真っ只中へ切り込み敵を討ち取って帰ってきました。
この時、信長は自分の炯眼は間違っていなかったと大変喜んだそうです。
信長は「蒲生の息子は普通の者ではあるまい。わしの婿にしよう」と。
信長により武功を称えられ人質の立場を解かれ、信長次女の相応院と結婚することになりました。
※信長の次女は「冬姫」と呼ばれていることもありますが典拠が不明なので相応院(そうおういん)を使用。
その後、織田家の元で、儒教、仏教、和歌、連歌、茶の湯、作庭を学んでいました。
そして明智光秀の家臣・斎藤利三に武芸を奨められ、鍛錬し技を磨きました。
画像:斎藤利三
信長が足利義昭を奉じて上洛し畿内を平定していた頃、鶴千代は成人(当時の成人は11歳~16歳)を迎えました。
元服(成人式)の時には、信長が鶴千代の仮の親として、鶴千代の頭に烏帽子を乗せる役を務めました。
その頃の信長の役職が弾正忠(だんじょうのちゅう)だったことから「忠」を授かり忠三郎賦秀(ちゅうざぶろうやすひで)に改名しました。
1570年4月15歳。1千騎で山人し朝倉氏攻めに参戦し、約5千石の領地を加増されました。
1570年7月。姉川の戦いに参戦。
1571年16歳。第一次伊勢長島攻めに参戦。
1573年4月18歳。鯰(なまず)江城攻めに参戦。
1573年8月。朝倉氏攻め、小谷城攻めに参戦。
1574年19歳。第二次伊勢長島攻めに参戦。
1575年20歳。長篠の戦いに参戦。
1578年23歳。有岡城の戦いに参戦。
1581年26歳。第二次天正伊賀の乱に参戦。
🐨有名な戦いにたくさん参戦してますねー
明智光秀の謀反を聞いた忠三郎賦秀は、安土城にいた父・賢秀といち早く連絡を取り、織田一族を保護し、光秀に対向姿勢を示しました。
画像:明智光秀
信長の天下統一を引き継いだ豊臣秀吉に従い、秀吉の義弟秀長に仕える。
画像:豊臣秀吉
画像:豊臣秀長
1584年29歳3月。小牧長久手の戦いに参戦。
1584年4月。戸木城攻めに参戦。。
1584年5月。加賀野井城攻め参戦。
1584年8月。菅瀬合戦では秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務めた。
※殿(しんがり)は、追撃する敵の行く手を阻み、本陣を無事に逃がす重要な役目。
天下人秀吉からその武功を称えられ「羽柴」の苗字を受け、伊勢松ヶ島12万石を与えられました。
秀吉からの信頼の厚さが、目に見えて現れた瞬間です。
「松阪城」を築城し城下町を造りました。
亡き信長を真似て、軍事・経済の要になる街造りや、経済発展の為有力商人を誘致し楽市楽座を導入し経済発展に貢献しました。
信長の下での経験が発揮された瞬間でした。
画像:松阪城MAP
1585年30歳。大阪でイエズス会のオルガンティノから洗礼を受け、「レオン」というクリスチャンネームを受けました。
この頃から苗字に「羽柴」、名に「秀」があることが、恐縮に感じると同時に、周囲への配慮も兼ねて、名前を「蒲生氏郷氏郷(うじさと)」へ変更したのです。
画像:蒲生氏郷
秀吉の直属の部下として身の回りの世話役係という、かなり偉ーーーい役職になりました。
1585年30歳。第二次太田城の戦い、富山城攻めに参戦。
1587年32歳。九州征伐で岩石城を攻め落とした。
1590年35歳。織田城征伐で韮山城を攻め落とし、小田原城包囲網に参戦。
この時、敵の夜襲を受け、近くにいた武将の甲冑を借りて、勇敢にもたった一人で敵陣の背後に回り、敵兵を次々と討ち取り活躍しました。
🐨なんかすごい戦ばっかりしてるねーーー
1590年35歳。
秀吉の天下統一に尽力した成果を称えられ大出世します。
当時、東北地方を治めていた伊達政宗の勢力を抑え、監視する目的で福島県会津の鶴ヶ城に入り91万石の大大名となりました。
この福島大名決定会議では、重臣達はこぞって細川忠興を推奨しましたが、秀吉は「任せられるのは氏郷しかいない」と言い、鶴の一声で決定したそうです。
伊達政宗はたった1年で鶴ヶ城を去ることになりました。
氏郷は再び能力を発揮し、鶴ヶ城の補強や、城下町を再開発し、街の名前を黒川から「若松」へ変更しました。
「若松」は、氏郷の出身地近江日野城の近くにある「若松の森」にちなんで付けたそうです。
そして、ここでも「楽市楽座」を導入し経済発展に大きく貢献しました。
これは、後の江戸時代会津藩の礎を築き、幕末の戊辰戦争でも難攻不落の城と呼ばれていたそうです。
画像:鶴ヶ城
1594年39歳。
氏郷は重病で養生していました。
秀吉は、徳川家康や前田利家に名医を派遣するよう命じました。
派遣された曲直瀬玄朔(まなせげんさく)という医師は、毛利輝元、豊臣秀次、豊臣秀頼、後陽成天皇、徳川秀忠などの治療を行っていた名医です。
診断は「癌(がん)」でした。
氏郷は翌年40歳でこの世を去りました。
その後、蒲生家は後継ぎの能力不足により会津から宇都宮に移され、12万石に減らされました。
その後鶴ヶ城には、上杉景勝が入城しました。
※🐨毒殺説もあったりするよー
🐨このお話大好きなんです✨
新しい部下達にはこう指示していました。
「戦場ではナマズの兜をつけた武将が先陣を切って奮闘する。その者に劣らぬ働きをせよ」
そのナマズの兜を被った武将こそ自分自身「氏郷」だったのであります!!
ボスが頑張る!
ボスがそんな前で頑張ってるんだから自分もやらなくては!
ボスを死なせるわけにはいかない!
いろいろな思いを抱かせることができますよね。戦時の士気が上がります!
それよりなにより🐨よよちち的には自分にも厳しいっていうか、自分の背中を見せるっていうのがかっこいいって思います!
こんな上司についていきたいって思うよね!
↓こーーーーんな大きな兜をかぶってたんだねーーー🐨
画像:ナマズ兜
氏郷は千利休と深い交流があり弟子として茶道を学びました。
利休の弟子の中で優秀な7人に選ばれた武将のことを、利休七哲と呼び、その筆頭に氏郷が挙げられるほどの腕前でだったそうです。
七哲のメンバーは諸説ありますが。。。
蒲生氏郷、細川忠興、前田利長、古田織部、牧村兵部、高山南坊、柴山監物と伝わっています。
🐨蒲生氏郷と細川忠興の2人以外は、時代により名前が入れ替えられていたりするようですね。
画像:千利休
🐨いろんなことなんでもこなしちゃう人だったんだねー!
蒲生氏郷の人生は、六角氏に仕える武家に生まれ鶴千代という名前から始まりました。
しかし、六角氏と織田氏戦で敗戦し、鶴千代は織田家に人質として差し出されました。
この事が、氏郷の人生を大きく変えました。
織田信長は幼少だった鶴千代の眼光の奥に才能を感じました。
そして信長の重臣・稲葉一鉄に教育され、明智光秀の家臣、斎藤利三に武芸を学び、武将としての素質が開花していきました。
また、文化人として儒教、仏教、和歌、連歌、茶の湯、作庭も学びました。
そして人質の身から信長の身内となり、信長の天下統一に向けた数々の戦で武功を称えられ大名となりました。
明智光秀の謀反により本能寺の変が起きた際には、安土城や周辺にいた織田一族を保護するほど忠義を尽くしました。
その後、天下人になった豊臣秀吉の下でも武功、築城、経済発展などの能力を買われ厚い信頼を得ていました。
遂には、東北地方を治めていた伊達政宗を退け、政宗の監視役という重要な役職を任され、92万石の大大名にまで出世しました。
🐨なんか超エリートだよね!常に第一線で活躍してます!!
残念ながら、40歳という若さで亡くなりましたが、
その人生は、人質の身分から大大名にまで上り詰め、文武両道を極め、忠義に厚く、
天下に名を轟かせた織田信長、豊臣秀吉が認めた、見事な戦国武将でした🐨
かっこよくて濃い人生だったねーー🐨
🐨他にも面白い武将がたくさんいますので是非好きな戦国武将を見つけてください💚