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徳川四天王ではないけれど家康の側近であり友だった頭脳派武将「本多正信」の生涯☆

こんにちは★

STAYHOME中で歴史に浸っているよよちち🐨です✨

 

いろいろ調べながらこうしてまとめているのが楽しいです🎶

外出できないけれど、ずーーと歴史の映像🎬を観たり本📚を読んだりしていると、戦国時代にタイムトリップしたような気分にもなってきます🏯⚔

 

最近は徳川家康の家臣などをいろいろ調べています。

先日、徳川四天王の4人を書き終えました。

今回は、四天王とは言われていませんが、家康が「友」と呼んで、徳川3代に仕えた武将 のお話です🌟

本多正信の生涯をサクッと

■正信誕生

1538年に本多敏正の次男として三河に誕生。

その後、鷹匠として竹千代(後の家康)に仕えていた。

 

■桶狭間の戦いで負傷する

1560年 22歳。

桶狭間の戦いで丸根砦を攻撃した時に、膝に流れ矢を受けてしまい、片足が不自由になってしまう

 

■雇い主の徳川家康に反発して追放される

1563年 25歳。

家康に収める年貢が高すぎると農民が反乱し「三河一向一揆」が起きました。

正信は家康に反抗し、農民の一揆のリーダーとして戦います。

しかし、家康側の酒井忠次軍(←徳川四天王の一人です)に鎮圧され追放されることになります。

 

■松永秀久の家臣→家康の家臣に再就職

1564年 26歳。

一揆のリーダーとして家康に反抗したことで退職。その後は浪人となるのです。

そして。。。奈良県を守っていた三好長慶の家臣松永秀久に仕えることになりました。

(🐨まさかの松永秀久!意外だなー。でも久秀からは学ぶ物が多そうな気がする!)

その後、また、浪人として石川県の他、各地を巡り歩いていたようです。

しかし、やっぱり家康の元で働きたいと、家康の家臣に口利きをしてもらい、再び家康の家臣になったのです。

なんだかんだで腐れ縁というか、家康と正信は仲良しなのね🐨

 

■伊賀越えで家康を守る

1582年 44歳。

信長から京都に招待されていた家康。

家臣たちと堺(大阪)をお散歩していました。

その途中です!

「本能寺で信長が討たれた!!」本能寺の変が起こったのです!

その知らせを聞き、家康達は慌てて三河に逃走。

家臣達は伊賀の峠を越える時に落ち武者狩りや盗賊などから家康を守りました。

(この同行者は、徳川四天王や、忍者の服部半蔵らです🐨)

 

■出世していきます

徳川家が武田家の領地を獲得した時、山梨県と長野県の統治を任される。

1586年 46歳。佐渡を任され国主になる。

1590年 50歳。豊臣秀吉による小田原討伐の後、家康が関東に引越を命じられる。

この時正信は相模の・玉縄城の城主となった。

関東総奉行として、江戸のまちづくりも任された。

(今の東京の基盤を作ったのが正信なんですってー🐨)

 

■家康に怒られる

1600年 60歳。

豊臣秀吉が死亡してから2年後、家康から真田家(長野)の上田城攻めを命じられ、徳川秀忠(家康の次男)、徳川四天王の一人榊原康政と共に城攻めを遂行。

しかし、しばらくして「関ケ原の戦い」が勃発。

本体(岐阜)に合流するように指令を受け、長野から向かいますが、大遅刻!

結局、合戦に参加できませんでした。

(遅刻したのは、真田家が足止めしたからという説もあれば、家康が送った使者の到着が遅かった説等、いろいろ説があります🐨)

これに家康は大激怒!!

正信も怒られ息子の秀忠も超怒られて、口もきいてもらえなくなったそうです。

榊原康政が、家康にお話して何とか怒りを収めたそうです🐨

 

■江戸幕府が始まる

1603年 63歳。

家康は征夷大将軍に就任

正信は、家康が将軍に就任するまでの間、朝廷との交渉役として補佐していたのです。

そして、家康の側近として関東総奉行に任命されます。

1605年 65歳。家康が引退して、秀忠が将軍に就任し、正信は政治顧問役に就任

1610年 70歳。大老に就任する。

徳川家の成長をずーーっとそばで支えていたのですね。

 

■正信の最期

1616年に家康が亡くなりました。

家康からは「友」と呼ばれ、家康の寝室に刀を持って入っても良いとお墨付きだった正信。

周囲は2人の関係を「君臣の間、水魚の如し」と言われていました。

 

家康が亡くなった同じ年に、後を追うように正信も亡くなったのでした。

76歳。徳川家を支えた人生でした。

 

家康とは仲良しだけど家臣とはイマイチ??

■徳川四天王の2人から嫌われていた

徳川四天王の一人、本多忠勝は「同じ本多でも、あいつとは何ら関係ない!一緒にするな!」

(🐨勘違いしている人多いのではないかな。最初、忠勝と正信は同じ家だと思っていました💦)

榊原康政は、「あいつのハラワタは腐っている」とののしりました。

武闘派は頭脳派の正信を露骨に嫌っていました。

結局この武闘派の二人は関ヶ原の合戦後、世の中が平和になった時に一線から退く形になりましたからね。。。

もしかしたら、頭脳派の正信を恐れていたのかなーなんて思ったりもします🐨

 

■稀な存在の頭脳派

「徳川軍の将はほとんどが武闘派だが、正信は稀な人物だ。」と松永秀久が言ったそうです。

 

例えば、家臣会議で、家康が正信に相談しますが、正信は居眠りを始めます。。。

この行為は、その意見に反対の意思表示だったのです。

賛成の時は、今目覚めましたふりをしながら、意見に賛成といったそうです。

家康同様に、ちょっと狸おやじだね🐨

 

おわりに

本多正信は、交渉役や、謀略、知略が得意な頭脳派として活躍した武将です。

家康が征夷大将軍になり天下統一するまでの立役者となった重要人物☆

江戸幕府が始まり、家康の息子秀忠将軍にまで徳川家に尽くした生涯でした。

 

槍の名手だった正信は、桶狭間の戦いで足を怪我した事で武闘派から頭脳派に路線変更するきっかけになった。(🐨これが、正信にとっては良かったのかもしれないですね)

家康の天下統一により戦がなくなって平和な世の中になった時、武闘派は退いて、頭脳派が台頭することになったのですからね。

正信は再就職だったので、古い家臣からは、新参者と嫌われたこともあったけど、最終的に関東総奉行にまで昇り詰めて、江戸の政治や商業の中心を築き、現在の東京の先駆けを作ることになったのです!

すごいことをした武将ですよね✨

 

🐨ほかにも頭脳派武将がいます↓よかったら読んでみてください🌟


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