こんにちは★
歴史が好きになったよよちち🐨です。
日本史大嫌いだったのに、こんなに「日本史」にはまるとは・・・。
最近は、時間ができると、いろいろな歴史が分かる本をよんだり、歴史漫画を読んだりしています🎵
それが楽しくて楽しくて。。。💜
現実逃避して、時間を忘れて歴史に浸ってしまいます✨
さて、歴史が好きじゃなくても必ず聞いたことがある北条氏の「北条氏康」について調べてみました。
ということで、今回は、全然知らないことばかりだった北条氏康 のお話★
目 次
北条氏康の生涯を簡単にサクッと
■生まれ
北条氏康は、後北条氏第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として誕生しました。とってもお坊ちゃまです。
氏康が7歳の頃、父・氏綱は北条氏を名乗るようになります。
氏康の初陣は上杉朝興VS北条(小沢原の戦い)で、大勝利を飾りました。
■小田原城の戦い 北条軍VS上杉・長尾連合軍
約1年に渡る長い戦い。
事の発端は、北条氏家が関東管領・上杉憲政に圧力をかけたのが原因。
その上杉憲政が逃げて、越後の上杉謙信に助けを求めました。
「おのれ北条め!関東管領に牙を剥くとは!!」と言ったかは定かではありませんが、上杉謙信は、「関東を奪還」するため出陣します。
その数約10万!本気度すごい!
謙信軍は北条方の沼田城(群馬県)・前橋城(群馬県)・羽生城(埼玉県)を次々と攻略していきます。
これに対し、北条軍(数万)は、里見氏(千葉房総半島一帯を治めていた)の久留里城を包囲していましたが、一方向から攻めていました。
そこで挟み撃ちにされることを恐れて、一時撤退して、松山城(埼玉県)に入ります。
その後、氏康は謙信軍の勢いに押され、小田原城まで退き、得意の籠城作戦にでます。
謙信軍には北関東の諸将も加わり、小田原城をはじめ北条方の城を包囲します。
しかし、長期遠征に対する不満や、兵糧が減少したことで、兵の士気は下がりまとまりが薄れていました。
それを「チャンス!」と思った北条軍は、同盟を結んでいた武田軍・今川軍へ援軍を頼み、北条軍は勢いを取り戻し勝利したのです。(今川は援軍の準備で終わったらしい)
数で圧倒していた謙信軍でしたが、武力と戦法に長けた武田軍の援軍だけで勝つのですから、武田軍恐るべし。
■国府台の戦い(こうのだい)北条軍VS里見軍
舞台は下総国の国府台城(千葉県)。
家臣の謀反、北条家家臣江戸城主・太田康資が上杉氏への寝返りを図りますが失敗、同族の太田資正のもとへ逃れます。
タイミング悪くこの頃、越後の上杉謙信が関東へ出兵してきていた事もあり、関東の諸勢力が「北条方」か「上杉方」につくか分かれていたのです。
里見氏は上杉氏に味方し、上杉謙信から北条挟撃の要請を受け「国府台城」に入ります。
国府台城の北に位置していた小金城の城主・高城はこの動きを察し、主君の千葉氏を介して北条氏に援軍を要請します。
そこで氏康は、上杉軍と里見軍が挟撃を整える前に、里見軍を攻撃しようと考え江戸城を出陣し、両軍は現在の江戸川を挟んで対峙します。
北条軍約2万、里見軍約1万。
結果、北条軍は国府台城を包囲し朝方に急襲、里見軍を壊滅させます。
■河越夜戦
北条軍約1万VS山内上杉・扇谷上杉・足利連合軍約8万
この戦は、「厳島の戦い(毛利軍vs陶軍)」「桶狭間の戦い(織田軍vs今川軍)」と並び「日本三大奇襲」に数えられています。
北条氏康26歳。
父・北条氏綱の死によって家督を継いだばかりだったので、大きな危機感を持っていました。やっぱり、そういう時に限って事は起きてしまうものなのか。。。
今川義元が山内上杉家と手を組み、北条領へ侵攻してくるのです。
さらに、武田軍も合流したため北条軍は窮地に陥ります。
こうして集まった連合軍約8万は、河越城(北条綱成(氏康の弟の養子)の兵約3千)を包囲しますが、北条得意の粘り強い籠城で約半年間持ちこたえました。
北条氏康は、綱成が籠城している間、武田家の仲介で今川家と停戦を結び、まずは「猛威を払います」。
さらに時間稼ぎのために何度も降伏の手紙を送り「連合軍を油断」させていました。
今川の脅威がなくなったのを好機に、北条氏康は8千の兵で河越城へ救援に向かいます。
そして、氏康は綱成へ奇襲の計画を伝えます。
北条軍は連合軍へ四方面から夜襲を仕掛け、夜襲を受けた連合軍は大混乱します。
これを勝機として、城内からも綱成が打って出ます。
その結果、山内上杉家の上杉憲政は逃亡、扇谷上杉家も滅亡します。
策を練り、忍耐強く機を待ち、徹底的に攻めぬく、奇襲戦の極意をやってのけた氏康。
これにより関東の諸将は北条家につき、北条家は関東で主導権を握り大きく飛躍することになったのです。数には策で対抗。
■三増峠の戦い
北条軍VS武田軍
北条・武田・今川との間で三国同盟を結んでいました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川家は衰退します。
これを好機とした武田軍は一方的に同盟を破棄し、今川家へ侵攻を開始したのです。
「同盟を勝手に破棄するとは何事だーーー!」
これに怒った氏康は、今川家を援助、さらに越後の上杉謙信と同盟を結び、武田軍へ対抗します。
これに対して武田軍は、約2万の兵で北条領へ侵攻し北条の諸城を攻撃した後、氏康のいる小田原城を包囲したのです。
氏康はやっぱり得意の籠城戦を展開。
しかし武田軍は過去に上杉謙信さえ落とせなかった小田原城に深攻めをしないで、4日後には撤退を開始します。
しかし武田軍の撤退、真の狙いは別にあったようです。
武田軍の思惑通り、この撤退を好機とみた北条氏康は氏照(三男)と氏邦(五男)の兵を武田軍の退路である三増峠に着陣させます。
さらに氏政(次男)へ、本隊を小田原城から出陣させ武田軍を挟撃しようと考えます。
ついに北条・武田の両軍は三増峠で激突したのです!
高台に陣取った北条軍。
武田軍は、軍を4つに割って構えます(中央隊・右翼隊・左翼隊・別働隊)。
北条は高台から武田の陣形が良く見えていたので優勢に感じていました。
そんな中、おやおや、武田の軍の中央隊が撤退していくぞ!
北条軍はこれを好機として、山を下り武田軍へ一斉攻撃にかかります。
しかし、北条軍が山を下っている隙に、武田軍の別働隊が高台を取り、北条軍は背後を取られてしまい攻め込まれてしまいます。
そして小田原城からの本隊の到着の前に敗れてしまうのです。
敗因は、武田軍の「中央隊にいた物資運搬部隊の動きを撤退と見誤ってしまった」。
武田軍の策が一枚上手でした。
武田信玄の北条領侵攻の目的は、駿河へ侵攻し優位性を獲得するため。
また、越相同盟への揺さぶり、さらに、関東の反北条勢力への示威活動だったとも言われています。
信玄って頭いいよね、ほんと。。。
■氏康死後 小田原城開城
三増峠の戦いから2年後、中風(脳出血)で体調悪化して、享年56歳。
北条家はその後、氏政、氏直と5代続きますが、氏直の時、豊臣秀吉軍に小田原城を包囲され、あえなく開城。
氏康死後わずか19年後のことだったのです。
北条家は戦国一の民政家
■領民思い
・税収の見直し
他の戦国大名の税収は五公五民というのが一般的でしたが、氏康は四公六民・年貢を4割、6割を農民の所得としました。
・意見箱を設置
甲斐の武田家、後の第8代将軍徳川吉宗が設置したことで有名です。
・上水道の整備
・戦国時代初、通貨統一「永楽銭」
・使者や物資を「馬」で運ぶ交通制度「伝馬制」を設ける
・市街地の清掃にも配慮
小田原城に来訪した人の記録には「ゴミが1つも落ちてなかった」と記録されていたそうです。
北条家は、内政が上手だったので小田原の北条家100年の間、領民の一揆や、一族の裏切りなどの内紛が発生していない!これってすごいことですよね!
■外交も上手
連合軍に挟撃される危機では、今川義元と和議をまとめ、北条滅亡の危機をまぬがれた。
その後は今川義元、武田信玄と三国同盟を結ぶ。
遺言にでは上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と同盟を結ぶようにと遺している。
など、外交戦略上手でもだったんですね。
北条氏康にまつわるエピソード
■臆病者→獅子へ
12歳頃の氏康は、、家臣が訓練のために放った鉄砲の音に驚き、耳を塞いでうずくまってしまうような臆病者だった。
これを見た家臣達は臆病者だと嘲笑した。
このことを恥ずかしく思い切腹を決意し、短刀を腹に当てます。
これに驚いた家臣の清水が、「古来より勇猛な者は、物音によく驚くといいます。それは勘が鋭いという証でもあります」と助言をして、その場をしのいだそうです。
籠城戦を得意とするのは、「臆病」な部分からきてるのかな、と思いました。
でも、大人になったら「相模の獅子」と呼ばれるようになるのです!
■北条疵
数十回に及ぶ戦によって、体や顔面には数々の刀傷を負いました。
特に顔に負った二つの向こう傷(必ず正面を向いていた)は「北条疵(きず)」と呼ばれているそうです。
なんか、綺麗な顔をしていると勝手に思い込んでいたけど、違っていたんだなー🐨
おわりに
北条氏康は
・籠城戦が得意。
・奇襲戦が得意。
・強敵、武田・上杉・今川と戦った。
・外交が上手く周囲の思惑を察していた。
・内政が上手く、領民を大事に思っていた。
・奇麗好き。
イメージとちょっと違っていて勉強になりました。
「源氏」の後から、長―く続いた北条家は、まさに「名家」です!
最後に、北条家の考え方が分かる物を載せておきます↓
~ 北条氏綱公御書 五箇条の御書と呼ばれる 五箇条の訓戒状 ~
※父氏綱も早雲から遺訓を受けていました。
1.大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
2.武士から農民にいたるまで、すべての民を慈しむこと。必要のない民などいないからである。
3.決して驕(おご)らず、またへつらわずに、身にあった分限を守ること
4.倹約に勤めて重視すべし。
5.勝利はほどほどにせよ。勝利し続けると、自らに驕り、敵を侮ることがあるからである
⚔ほかにも、歴史のお話いろいろしていますので、ゆるゆると読んでみてください↓🐨