こんにちは★
よよちち🐨です★
今回は、戦国時代の主役級の人物石田三成です★
現在だと歴女に絶大な人気を誇る石田三成ですが、当時の三成はコミュ力0で嫌われ者でした。。。
でも、豊臣政権をしっかり支えていたのは三成の手腕だと思いますし、誰よりも豊臣家、秀吉への忠義は強く、自分を犠牲にしても豊臣家ことを思って最後の1秒まで生き抜いた武将です。
ということで、今回は 石田三成の生まれから、関ケ原の戦いまでの流れをサクッと分かりやすく なお話★
目 次
※生れたときは「佐吉」という名前でしたが、今回は全部「三成」で統一して書いています※
近江(滋賀県)で石田家の次男(三男という説もあり?)として生まれます。
三成(佐吉)は、地元のお寺で小姓をしていました。
そのお寺で、秀吉に出会います。
秀吉は、その時の三成の小姓としての気遣い、頭の良さが気に入って、そのまま三成を連れ帰り、秀吉に仕えることになります。
(🐨秀吉の人を見る目、先を見る能力ってすごいね。秀吉みたいな人って常にアンテナを立てて、目を光らせているんだろうね)
こうして、秀吉の部下となった三成。
大活躍していくのです!
賤ケ岳の戦いでは、「賤ケ岳の7本槍」の加藤清正や、福島正則に注目が行きがちですが、先陣をきって活躍したのが、石田三成と大谷刑部でした。
(🐨三成が戦場で戦っているってイメージがないですよね)
三成は、キレる頭を使って「太閤検地」(テストに出たよね 笑)や、刀狩りの推奨をしたりと内政面で活躍していきます。
大きく歴史が変わる大事件が起きました。
本能寺の変です!
織田信長親子が明智光秀にやられたーー!
🐨明智光秀の本能寺の変のお話↓🐨
謎が多い本能寺の変!明智光秀の身辺には何がおこっていたのかを調査!
豊臣家は、織田家の部下ですから、社長が殺された!というような感じです。
そして、いち早く現場に駆け付けて明智光秀を討ったのが豊臣秀吉。
そして、うまいこと信長の後の椅子に座ったのが豊臣秀吉。
(もちろんそれまでにいろいろなことがあったけれどね)
豊臣家は、どんどん大きくなり、各地の大名を自分の配下に置くことに成功していきます。
最後まで反抗していたのが北条家。
そして、戦国大名総出で、北条征伐が始まります。
北条家の城をどんどん落としていきますが、なかなか落ちないお城が1つだけありました。
そのお城「忍城」を三成が指揮官として担当することになったのですが、失敗に終わります。
北条家は降伏しましたが、唯一最後まで落ちなかったお城を担当した三成は「戦下手」と言われるようになりました。
この北条征伐で、豊臣家が日本のトップとなるのでした。
北条征伐で失敗はありましたが、秀吉をずーーっと支えてきたのは三成です。
三成は、天下人の側近。今でいう、官僚みたいなポジションでしょうか。
秀吉の右腕となって、政治面で働きます。
三成は、秀吉や、他の官僚たちと作戦を練ったり、指示を出したり、外交をしたり、お金の計算したり。。。と、とーーっても忙しかったと思います。
この時に、あの大阪の陣で大活躍する真田幸村は三成の部下として働いていました。
🐨↓真田幸村のお話🐨
歴女に大人気真田幸村ってどんな人?超わかりやすく解説★イケメンはうそ??
三成は頭脳を生かして政治を行う人、加藤清正や、福島正則などは、戦場で体を張って戦う人。
そういう役割分担になっていました。
三成は仕事はできますが、周りとのコミュニケーションがへたくそでした。ワンマンな人。
口を開くと嫌味ばかり言うし、ツンツンした態度で反感をかいやすいタイプです。
もともと、誤解を生みやすい性格の三成が、徹底的に嫌われるようになったのが、この朝鮮出兵。
三成は、作戦を立てたり、物資の手配、連絡係りをしたりする役割でした。
三成がくそ真面目なばかりに、戦場で戦っている武闘派の加藤清正、福島正則、小早川秀秋から嫌われていくようになります。
どういうことかというと、
朝鮮は環境が厳しく、餓死、凍死者が多数出るような過酷な現場で武闘派の武将たちは戦っていました。
三成は、真面目なので、その戦の状況を包み隠さずに、秀吉に逐一報告していました。
例えば、指示がないのに戦を始めた武将がいるーとか、○○がサボってるらしいよーとか。
実際の現場で戦っている武将達は、この三成のチクりで、秀吉に怒られたり、罰を受けたりするんですね。
それで、三成との信頼関係は崩れていく事になりました。。。。
過酷な現場で命を懸けて戦ってくれているのにね、なんか、もっとうまい事言えなかったのか?と思うのですが。。。
それが原因で三成はどんどん嫌われていくのでした。。。
🐨特に嫌っていた人達のお話はこちらです↓✨
⚔加藤清正⚔
虎退治だけじゃない!加藤清正の意外な能力やエピソードなどをサクッと解説★
⚔福島正則⚔
猛将福島正則は賤ケ岳・関ケ原の戦いで大活躍するけど・・・天然キャラなのか?
この件以外にもいろいろな嫌われる要素があるんですがね★
(別記事の三成エピソード集も是非読んでください✨笑えます)
やはり秀吉に目をかけられていたことに妬みを持つ人もたくさんいる中で、そのツンツンした態度で、さらに孤立してしまいました。
ここから、三成の人生が悪い方向へ変わっていきます。
今までは、秀吉というバックがあったので、割と三成の思うように政治が運んでいました。
しかし、秀吉が死んだ直後から、力のある大名が天下を狙ってくるようになります。
普通であれば、秀吉の子供(秀頼)に家督を譲って、秀頼が、秀吉のポジションとなるのですが、まだ幼くて政治ができる年齢ではなかったのです。
こうなることが分かっていた秀吉は、生前は、常に、三成や家康、他の家臣達にも「秀頼を頼む!」と言っていました。
そして、家臣の中で力が一人の人間(家)に集まらないようにする工夫をしておきました。
例えば、何かするときはみんなで相談して賛成となってから実行しましょう。とか、むやみに親戚いっぱい作って仲間を作らないように。などなど。
しかし、徳川家康は、秀吉の死後、どんどん勝手に姻戚関係を結び始めます。
秀吉が作った規則を破って、不穏な動きを始めるのです。
家康が天下を狙っている!!と気づいた三成。
これはヤバいぞ!!
このままでは、家康に豊臣家が乗っ取られる!!
三成は、豊臣家、秀頼をどうしても守りたかった。
秀吉の遺言を守って豊臣政権を続けなくてはいけない!!
家康をやっつけなければ!!
俺は戦うぞ!!
ざっくりですが、これが関ケ原の戦いのきっかけです。
三成は、関ケ原の戦いの前には、徳川家康暗殺計画を実行するが失敗。
が、
しかし、今度は自分の命が狙われるようになりました。
豊臣家の家臣でもある加藤清正、福島正則らに!です。
もう豊臣家の中は仲間割れ状態です。
(家康はしめしめ・・・という感じで様子を見ていたんじゃないかなー🐨)
そして、三成は悔しいけれど、家康のところへ行って「HELP ME!!殺される!!」と助けを求めることになりました。
家康は、武闘派チームをなだめて、一旦、ことを治めますが、三成は、官僚の椅子から下ろされることとなって、一線から退きます。
でもこのままだと、家康の思うつぼだ。。。
やっぱり家康をやっつけなければ!!
関ケ原の戦いがなぜこのタイミングなのか?は、
🐨こちら↓のお話を呼んでみてください✨
家康に出したお手紙「直江状」が笑っちゃう!いろんな意味で面白い武将直江兼続の人生
石田三成の代表的な戦です。・・・が、
総大将は毛利輝元。
(輝元のお父さんは3本の矢で有名な毛利元就)
何故、三成が総大将じゃないのか??というと、三成が嫌われ者で、石田三成という名前を大々的に出すと味方が減るからでしたー。
なんかかわいそうな三成。。。(´;ω;`)ウゥゥ
親友の大谷刑部は、三成の挙兵の話を聞いたときは何度も反対しました。
「家康に歯向かうのは危険!しかもお前嫌われてるし!やめとけ!」と。
でも、三成の決意は固かった!!
協力すると決めた大谷刑部は重い病を押して、三成のために尽力します。
豊臣家に小さいころからずーーーっと仕えていて恩もあった加藤清正、福島正則らは、東軍についてしまうのでした。。。
何故なら、お分かりのように、三成のことが嫌いだから。
(ここで、一時の感情で二人は、家康側についてしまったのです。でもこの二人の豊臣家への忠義は消えてはいなくて、後に家康にいじめられることになる)
西軍(三成側)に味方になってもらうためのお手紙を各地の大名に送ります。
「家康はこんな悪い事したんだよ!」という内容と、「豊臣家に恩義がある者は西軍の味方になって戦おう!」というお手紙でした。(ここでも三成の名前は出しませんでした)
こうして西軍(三成)約8万、東軍(家康)約7万の兵が集まって、超特大な戦い「関ケ原の戦い」が始まるのでした。
前半は西軍、東軍ともいい勝負でした!!
どちらかと言えば西軍が優勢!!
家康の息子は、真田家に足止めされてメイン会場に遅れたり、島左近(三成の家臣)の頑張りなどもあって、最初の方は西軍の方が有利に進みました!!
しかし・・・
一気に形成逆転となる事件が。。。
それは「裏切りにあってしまった」のでした。。。
張本人は「小早川秀秋」です。
(この小早川秀秋も朝鮮出兵の時に三成に恨みを持つようになった人物です)
小早川秀秋軍15000もの兵が東軍についてしまった!!
なんとなく予感していた大谷刑部は、小早川軍の近くに軍を敷いていました。
しかし、大谷軍は1000人ほど。(※兵の数は諸説あり)
それでも大谷刑部の智略で何度も押し返しましたが、ついに力尽きて大谷刑部は自害。。。
そこから、どんどん西軍は崩れていき、あっという間に負けてしまったのでした。
わずか半日の出来事でした。。。
(戦って3か月とか、10年とかかかることもあるのに半日って)
小早川秀秋の裏切りがなかったら、西軍が勝っていたかもしれないです。
三成が嫌われ者じゃなかったら。。。なんて思ってしまいます🐨
(歴史にたらればはありません)
三成は、敗戦後、山の中に逃げて隠れていましたが、徳川家の家来に見つかってしまい、とらわれてしまいました。
詳しいお話はこちら↓★
みんな個性的でおもしろい人物ばかりです🐨💛
いろいろな思いがあって参戦しているんだなーって思う人もいれば、なぜ参戦してるの??(笑)という人もいます。
名前の部分をぽちっとすると飛べますよ~⚔
🐨マークはおすすめ武将💛
・井伊直政
(徳川四天王の一人。赤備えで戦い赤鬼として恐れられた)
・本多忠勝
(徳川四天王の一人。戦でキズを負ったことがないと言われている)
・加藤清正
(賤ケ岳の7本槍の一人。豊臣家の家臣。福島正則とマブダチ)
・福島正則
(賤ケ岳の7本槍の一人。豊臣家の家臣。加藤清正とマブダチ)
・可児才蔵🐨
(福島正則の家臣。笹の才蔵と呼ばれて関ケ原の戦いでは大活躍?)
・最上義光
(家康と仲良し。秀吉に嫌気がさしてたからもちろん東軍につく)
・大谷刑部🐨
(豊臣家の家臣。三成の親友。重い病を患っていて(-_-)を隠している)
・立花宗茂🐨
(九州の武将。関ケ原の戦いの後、敗戦後に見事に大名に返り咲いた唯一の武将)
(九州の武将。関ケ原の戦いの「島津の退き口」が有名)
・島左近
(石田三成の家臣。三成からのスカウトで破格の待遇で家臣になった)
・真田幸村
(関ケ原の戦いでは、地元長野で家康の子供と戦った)
関ケ原の戦いで敗れた西軍のメイン人物の三成。
三成の処罰は、とても厳しいもので、町中にさらし者にされた後に、処刑されました。
武士として切腹もさせてもらえなかった、と言われていますが、そもそも三成は切腹するという選択肢はなかったように思います。
たとえ、切腹できる状態があったとしてもしなかったのではないかな、と思います。
最期の最期まで、どう生きるかを考えるような人でした。
死刑が決まった後も、考えるのは豊臣家の事でした。
(こうなってもまだ再戦の機会をうかがっていた、という話も伝わっています)
最期の1秒まで、豊臣家のことを思って死んでいきました。
41才でした。
三成の豊臣家への忠義は本物だし、豊臣家のためだけに生きた三成ですが、残念ながら自分の気持ちを上手に表現できなかったんですよね。。。
加藤清正は、「あいつ(三成)が天下を狙っているんだ!」と思ったらしく、
「豊臣家のために家康の味方に付いた」と言っていますが、
マジで逆だから!って教えたくなっちゃうよね🐨。。。
三成は、本当に豊臣家を守りたかった それだけだったと思います。
今回のお話だと三成ちょっと嫌な奴って感じるかもしれませんが、
石田三成の人間性が分かるエピソードを別記事にしました🐨
すっごい感動する物もあれは、は??っていう笑っちゃうエピソードまでたくさんあります✨
是非合わせて読んでみてください🎶
三成のこと大好きになっちゃうと思いますよ🎶↓
🐨おすすめ歴女記事🐨