こんにちは★
戦国時代が大好きなよよちち🐨です★
天下分け目の戦いの「関ケ原の戦い」のトリガーとなった通称「直江状」を書いた人物 直江兼続が、よよちち的にすごく面白いので、いろいろ深掘りしてみました★
初心者向けの内容になっています★簡単な言葉で知らない人でも分かるように書いているつもりです✨
(マニアックな方には向かない内容です)
今回のお勉強で知らなかったこともたくさんあったので、それも含めて書いていきたいと思います★
ということで、よよちちのツボ 面白エピソードたくさんの直江兼続の人生 のお話★
目 次
元々は「直江」という苗字ではありませんでした。
父親の名前は、樋口兼豊。その長男として生まれました。
ですので、最初は「樋口」という名字でした。
「直江」というのは上杉景勝の側近のある直江信綱が暗殺された時、その妻と再婚して、直江家の婿養子になって「樋口」→「直江」となりました。
兼続は、小さい時から、上杉家に仕えていました。
上杉謙信の甥っ子にあたる上杉景勝が11歳の時に、6歳の兼続は家臣となります。
5歳の時に上杉謙信を見て影響を受けました。かっこいいーーー!!と。
謙信は「毘沙門天」を熱く厚く信仰していました。
それで、兼続も同じ仏教の武神であった「愛染明王」を崇拝して、「愛」の字の兜をかぶっていたんですね。
上杉家のボスである上杉謙信がなんと急死。。。
跡継ぎのことが何も決まってないのに、死んでしまったので、跡継ぎ問題で、内輪もめが始まってしまいます。(御館の乱)
上杉景勝VS上杉景虎
景虎のバックには、北条家などの強い勢力がありましたが、兼続の素早い行動と智略で勝利します。
こうして、景勝が正式な跡取りとなり、家督を継ぐことになりました。
そこからは、ずっと景勝を支える側近(最高位)として、戦にも内政にも力を注ぎます。
「本能寺の変」の後、秀吉が天下統一に向けて勢力を付けている時に、上杉家も秀吉の家臣となりました。
その後は、上杉家は、「北条征伐」「朝鮮出兵」など、秀吉の命令によって戦をしていました。
この時兼続は、秀吉からも信頼されていました。
秀吉の死後は、徳川家康が天下を狙った動きを始めます。
力を持っていた上杉家は家康に目をつけられてしまいます。
徳川家康は、上杉景勝が、自分に逆らっているんじゃ?と思い始めます。
戦の準備のような動きをしている。。。
「あやしーーーー!説明しに来んかい!」と。
そして家康は、景勝に「謀反の疑いがあるんだけど!!ちゃんと説明しに上洛して!」とお手紙を送ります。
そのお手紙に直江兼続がお返事をすることにしました。
この心のこもったお返事が「直江状」というわけですね。
この「直江状」が何故関ケ原の戦いのトリガーとなってしまったのか?というと、内容がなかなかの面白い物で、家康が、大激怒!したからです。
「景勝やっつけるーーー!」と徳川軍が大阪を出発したスキを狙って、石田三成が挙兵したんですね。
それが「関ケ原の戦い」なわけです。
この「直江状」で家康が挙兵しなければ(大阪を留守にしなければ)、「関ケ原の戦い」は起きなかったのでは?という事ですね。
そして、三成の挙兵を知った家康はすぐにUターンして帰って行きます。
直江兼続的にはどう思ったんでしょう?
「上杉家を倒しに来るんじゃなかったの?」
「あちゃー!なんか大きい戦に発展しちゃってるんだけど!」
ですかね(笑)
※この「タイミングが良すぎるいきさつ」で、石田三成と直江兼続がつるんでた説もありますが、信憑性に欠けるかな、とよよちち🐨的には思っています。仲が良かったのはほんとっぽいけど※
■家康 大激怒「直江状」の中身とは?
頭の良い直江兼続が書いたものなので、嫌味たっぷりで皮肉が混じった素晴らしい物でした(笑)
キチンとした敬語を使った超しっかりとした文章の超長文でお返事をいたしました。
面白くてわかりやすいサイトがあったので引用します
今月1日付けのお手紙が昨日13日に届きました。
よーく読ませてもらいましたよ。いやぁ、幸せ幸せ、一つ一つ質問に答えていきますね!
一、ウチんとこの良くない噂でそちらがザワついてるらしいですね。
京や伏見でも同じような騒ぎがあるのに遠国であるウチまでそんな噂がたっちゃうんだもの。そりゃ家康様も心配になりますよね。
けどウチにいたっては、家康様を心配させるようなことはないので大丈夫ですよ。
一、謀反の疑いについて、家康様は上洛して説明するようにって言うけど、上杉家は国替えで会津に移ったばっかりです。このタイミングで上洛するとか会津を納める時間ないんですけど。
それにウチは雪国だから10月から3月の間は自由に動けないんですよね。嘘じゃないですよ、ウチの地元に詳しい人に聞いてみて下さい。
こういう事情があるから上洛できないんです。別に反抗してるわけじゃないですよ。
一、景勝に誓紙を出すようにとのことですが、誓紙を出しても約束を守らない人がいるようだし、誓紙ってあんまり意味のないものだと思います。
※家康の事を遠まわしにディスっている。秀吉の死後、豊臣政権の決まり事をことごとく無視し、好き勝手していた家康は石田三成や前田利家に注意され『もう約束破りません!』と誓紙を提出させられている。にもかかわらず、前田利家の死後にまた誓いを破って権力拡大の為に勝手な事をしていた。
一、疑ってらっしゃるようですが、秀吉様がご存命の時からウチの景勝は律義者と評判だったじゃないですか。
世の中が変わっても景勝の律儀さは変わりませんよ。
一、景勝が謀反を起こそうとしてると家康様に報告した者がいるようですが、それが事実なのか調べもせずに景勝を悪者と決めつけるなんてあまりにも酷すぎます。その者を呼び出して、景勝が謀反を企む理由をきちんと述べていただきたい。それができないのであれば、家康様のほうが何かやましい心をお持ちになっていることになりますぞ。
一、そうそう、加賀の前田利長様の件は家康様の考え通りに事が運んで良かったですね。大変なご威光です。
※前田利家の死後、後継ぎの前田利長に謀反の疑いをかけて屈服させている。まさに今、上杉家に対して同じ事をしようとしている家康への嫌味。
一、謀反の為に武具を集めていると事ですが、それは違います。田舎の武士は鎧や鉄砲を集めるのがステータスなのです。そちら都会の武士達が、茶器などの人たらしアイテムを集めるのと一緒ですよ。文化の違いですね。
一、会津で道路整備や橋造りをしている件ですが、国の交通を良くするのは一国の主として当然のこと。近隣諸国の方は何も文句を言ってこないけど、越後の堀秀治だけが戦準備だとか文句を言ってるようです。
本当に戦をするつもりなら、あちこちに道を作るようなことはしません。敵が攻めてきたら一方の防ぎさえまともにできないでしょう?そんなこともわからず騒ぎ立ててるなんて馬鹿かと。というか、そんな手間かけなくても堀秀治ごとき簡単に踏み潰せるっていう話です。
一、景勝に逆心がないのであれば上洛して説明しろ、との事ですが、まずは景勝を疑う者がなぜそう思うのか内容を明らかにしていただきたい。その内容を正す事で我々の潔白が証明されると思っております。ここを明らかにしない限りは上洛することはできません。我々は動きません。
こうしてる間に秀吉様の遺言を無視してよからぬことを起こす人がいて、幼い秀頼様を見捨てる事になったとしても致し方なし。その時は家康様の首尾が悪かったということになりますね。まぁ、景勝が悪いのか、家康様がよからぬことを企んでいるのか、そのうち世間のもとで明らかになるでしょう。
一、何度も言うけど景勝は謀反など考えておりません。我々が無理やり戦をして天下をものにしたところで、世を乱した者として悪名が轟くだけ。そのような恥をさらしてまで天下を欲する景勝ではありません。
家康様には何卒、ご安心していただきたい。
しかし、景勝が悪であると世間に晒されているこの現状は耐えられない。とにかく謀反だなんだ騒ぎ立ててるヤツのご意見を聞かせて欲しいですねぇ。
一、そういえば、ウチの地元らへんでも堀秀治が『景勝に逆心あり!』と騒ぎ立ててますが、こいつはまともなヤツじゃないので相手にしておりません。
一、天下において真実は一つ、白黒ハッキリしております。今後、この件についての返答はありのままにお知らせ下さい。
ついつい沢山書いてしまいました。素直な気持ちをぶちまけた限りです。失礼な事言ってたらごめんなさいね。
直江山城守兼続より。
https://yururito-sengoku.com/sengokunaoekanetugu/naoejou.html引用
なかなかの嫌味っぷりです(笑)
こういうのいいよねー(笑)
どっちにしろ、家康が、自分の天下統一のために、上杉家の力が邪魔で、「謀反の疑い」という名目で上杉討伐をしたかったのかもしれませんが。。。
兼続は、「どうせ倒しに来るならば、これくらいの嫌味たっぷりの手紙を送ってやろう」と思ったのかもしれませんね。
三成の挙兵を知った、家康軍はUターンして帰って行きました。
上杉家は家康軍を追撃することなく、他の場所を攻めることにしました。
せっかく戦う準備ができていたので、かねてからうまくいっていなかった最上・伊達連合軍(東軍)を攻めます。
兼続は総大将を務めました。この戦は優勢に運んでいました。
しかし、戦いの最中に「西軍」が負けたことを知り、撤退します。
この時兼続は殿(しんがり)を務めて撤退戦を成功させました。
しかし、負けは負け。
この後家康に頭を下げることになりました。。。
家康に領地を没収され、ピークの時の4分の1になってしまいました。。。
(全部没収じゃなくてよかったね)
貧乏になってしまった上杉家ですが、家臣をリストラしなかったので、みんなが貧乏生活を送ることになりました。
苦しい財政状況になってしまった上杉家。。。
ここで、兼続がまたまた大活躍!!
頭がキレッキレの兼続は、財政を整え始めました。
いろいろな方法で財政難を乗り越えながら10年ほどで、住みやすい国をつくりました。
景勝も感謝しました。
家康の家臣となった上杉家はその後、「大阪の陣」の夏と冬の両方に参加します。
兼続は3人の子供がいましたが、全員早くに死んでしまいました。
景勝に「養子をとればー」と言われますが、自分の代で断絶すると決めました。
もしかすると、自分が養子をとることで、またお金がかかるしいろいろあるからもうお金がない上杉家に迷惑をかけないでおこう、と思ったのかもしれません。
兼続は、60歳で病死します。
上杉景勝よりも早く死んでしまいました。景勝はとっても悲しみました。
豊臣秀吉をも感心させ、「私の家臣にしたい」と何度も説得されたのですが、「つかえるのは景勝だけです」と忠義に厚かった兼続。
兼続は、ずーーーーっと景勝と一緒にいて、生涯を終えました。
直江兼続は、大河ドラマで主役にもなりました🌟
兼続は、伊達政宗と仲が悪かったのですが、ここでもなかなかの嫌味を言います!
江戸城で伊達政宗とすれ違いました。
この時、立場的には、兼続の方が下。
政宗に対してあいさつをしなくてはいけません。
しかし、兼続は素通りします!
怒った政宗は「挨拶しろよ!」
兼続は、「政宗様は何度もお目にかかっていますが、ほぼ戦いで負けて逃げるところしか見ていないので、気が付かなかった」と言い放ったのです(笑)
🐨いいよねー(笑)
またある時、政宗が小判を見せびらかしていました。
その時も兼続は、またまた強気発言をします!
政宗が「扇子に乗せてみるので遠慮をしないで見るといい」と順番に見せていきました。
みんな「素晴らしいねー」と言うのですが、
兼続の番になった時「こんな汚いもの、触れるか」と投げ返したそうです!
この人面白い!!
空気読まないこの強気っぷりが好きです!
「真田丸」で、直江兼続を演じたのは、村上新悟さん。
この人が、いい味を出していたんですよねーーー✨
バリトンボイスでかっこよかったーーー
そして、景勝にあきれながらも、上杉家を守っていく姿を上手に演じていました!
兼続ファンが一気に増えたのではないか、と思います!
よよちちが思い浮かべる「直江兼続」に、ぴったりでした。
感じ悪いところもあるけど憎めないというか、なんか笑っちゃうというか。。。
景勝をあきれた目でにらんでる顔が強く印象に残っています(笑)
戦では「実践」というよりは「軍師」のような存在でした。
そして、上杉家の内政の中心になって、景勝をずーーーっと支えていました。
生涯上杉家一筋のかっこいい武将です!
真田丸は名作ですなー💜
🐨ほかにも面白い武将のお話していますのでよかったら読んでみてください🌟↓