こんにちは★
歴史のTVが大好きなよよちち🐨です🌟
年末に放送された「国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙」
せっかくだから、この番組を観ながら、よよちち🐨なりに、復習しながらまとめてみました🌟
※テレビ朝日 2019年12月28日放送分 抜粋※
🐨マークはよよちちも大好きな武将です🎵
ちょっと注目して見てください✨
目 次
■第20位 上杉景勝(新潟) 享年69
戦国猛者・上杉謙信の養子ながら上杉家の後継者になった武将。
直江兼続、前田慶次、真田幸村など有能な部下に慕われていました。
豊臣秀吉からも気に入られていて、福島県会津の領主を任された頼れる男。
関ケ原の合戦後、領地を没収され石高が4分の1に減ってしまったのに、家臣がみなついてきた(120万か30万に減ったそうです)。
謙信から受け継いだ「義」を重んじ、真面目で優しい性格。不平不満もじっくり聞く。優柔不断。
家臣達はその憎めない人柄に惚れたのでしょうか。
■第19位 竹中半兵衛(岐阜)享年36
豊臣秀吉の家臣。秀吉の天下取りの支えとして大活躍した最強軍師。
若くして天才ぶりを発揮、織田信長でも落とせなかった稲葉山城をたった16人で、しかも一日で奪い取った天才軍師。
通常1年1万人と言われているのでどれだけ凄いかわかりますね。
城にいる人質の兄の見舞いを装い潜入。敵なんてだれもいないのに、敵が大勢攻めてきたぞ!奇襲だ!と甲高い声で叫び、城主を城外へ逃がしたところで、城を乗っ取るという奇策でした。
織田信長もその才能を認め家臣としてオファーしたそうです。
■第18位 真田昌幸(長野)享年65
最初は武田信玄の家臣でした。(武田家には一筋でした)
武田家が滅びてから、昌幸は上司を信長・家康・秀吉など、とっかえひっかえ。
ついた異名は「表裏比興の者」「食わせ物」。
彼が何をしたかったのか、昌幸は真田の名を残すため、真田に仕える家臣やその家族を守るために必死だったのでした。
息子兄弟を豊臣側と家康側に別れさせたことで、勝利した徳川家康の家臣となった信之が生き残ったのです。
昌幸は生き延びる事の大切さ、「生に固執せよ」が口癖だったのです。
真田昌幸の子孫15代目が健在。
■第17位 井伊直政(静岡)享年42
徳川家康の家臣。徳川四天王(坂井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政)の一人。
ニックネームは井伊の赤鬼。四天王の中では最年少。
スピード出生の理由は、目立ちたがり屋&アピール上手。
戦場でわざわざ目立つ赤い甲冑(赤備え)をまとい先陣を切り功績を上げることで、井伊直政の軍と分かりやすい事から家康にアピールできたため。
関ケ原の合戦では、逃げた島津義久を深追いして、銃撃に合い、その傷が悪化し2年後に死亡しました。
主君の家康が調合した薬を、貝殻に入れて持ち歩く、お茶目な一面もあったのです。
ゆるキャラの「ひこにゃん」は井伊直政の赤備えをモチーフにしています。
🐨詳しくは↓
赤備え継承者「井伊の赤鬼」徳川四天王で体中が傷だらけ井伊直政の人生が面白い★
■第16位 前田利家(石川県)享年62
織田信長の家臣。槍の名手で、数々の武将を討ち取ったことで有名。
その槍の長さ約6.3メートル、重さ6㎏。
利家のやりを見ただけで敵は逃げていったそうです。身長約170㎝、体形も筋骨隆々だったのが鎧の形からわかるそうですよ。
戦国時代の主力武器槍と刀ですが、槍は叩くもの、刀は突くものという使い方に驚きでした。
槍で兜や鎧を叩くと、兜はヘコミ脳震や頭蓋骨骨折をおこし、鎧がへしゃげて肋骨骨折など相当な破壊力があるそうです。
戦をすれば財政が圧迫するため、利家はソロバンを持ち歩き徹底的に収支管理しました。
その結果、加賀百万石と言われる巨大な礎を築けたのです。
その財力の象徴として鎧は金箔で豪華絢爛な仕立を施しました。
■第15位 毛利元就(広島県)享年75
「一本の矢なら折れてしまう、三本の矢なら折れまい」という名言があります。
一族を結束するために説いたという逸話で有名です。
元就が大出世するきっかけの「厳島神社の戦い」では、中国地方の有力大名2万VS元就4千と、数で圧倒的に不利な状況でした。
しかし元就は、大軍勢「村上海賊」を仲間に取り入れ立場有利となり見事に勝利しました。
町長的存在だったのに、たった一代で中国地方全域を支配する大大名になったのです。
元就の知略・戦略はとても優れていて下克上が得意。織田信長も恐れ手が出せなかった人物。
ちなみに、「村上海賊の娘」は大人気でしたね★
■第14位 浅井長政(滋賀県)享年29 🐨
織田信長が勢力を拡大し始めたころ、浅井長政は滋賀県北部を治めていました。
その後、信長の家臣となり、信長の妹お市の方と結婚。信長とは義理兄弟になります。
娘は美人三姉妹として有名でした(茶々は豊臣秀吉の妻、お江は徳川家光の母)。
信長は長政との約束を破り、長政と同盟していた朝倉を攻撃、これにキレた長政は信長を裏切り、朝倉の味方として戦った、友情、人情の厚い男でした。
米が不作のとき、年貢を1升納めなければならないところを、8号升に減免してあげるほど、農民目線で考えることができた、戦国一の庶民ファースト武将。
🐨詳しくは↓
歴女に人気の武将「浅井長政」の生涯は「義」を重んじた筋が通った人生だった
■第13位 前田慶次(山形県)享年73
上杉景勝の家臣。傾奇者として有名。
秀吉から城に呼ばれたけど、正装せず、虎柄の派手な衣装をまとって登城。
家臣たちは大ひんしゅく。
さらに慶次は自分の主君以外に頭を下げたくないので、横を向いてお辞儀をした。
この行動に秀吉は「これからいくらでもかぶいて良いぞ」と言ったそうです。
果たして、気に入られたのか、見捨てられたのか、どちらでしょうね。
■第12位 直江兼続(山形県)享年60 🐨
上杉景勝の家臣。
豊臣秀吉から家臣になれと言われたが、仕えるのは上杉景勝のみと断り、上杉家に忠誠を誓った武将。
主君上杉景勝が戦に負けて石高を減らされても、忠誠を尽くした義理人情の厚い武将。
鎧兜に「愛」と掲げていた事で有名。この愛は「LOVE」ではなく、山形県米沢市にある愛染明王(あいぜんみょうおう)の「愛」をモチーフに作られたのです。愛染明王は真言宗の「戦に勝つ神」として信仰していたことから選ばれました。
🐨詳しくは↓
家康に出したお手紙「直江状」が笑っちゃう!いろんな意味で面白い武将直江兼続の人生
■第11位 加藤清正(熊本県)享年50
豊臣秀吉の家臣。難攻不落の熊本城を築城した城づくりの天才。
壁や畳の中に乾燥食物を隠したり、城内に銀杏の木を植えたり、籠城を見据えて築城するほどこだわっていた。
清正が築城したのは、熊本城、名古屋城、江戸城。
朝鮮出兵の時に虎を退治したことでも有名。
時は流れ明治時代、西南戦争の時、西郷隆盛でさえ熊本城を落とせなかった。
「戦に負けたのではない、加藤清正に負けたのだ」と言ったそうです。
🐨詳しくは
虎退治だけじゃない!加藤清正の意外な能力やエピソードなどをサクッと解説★
■戦場で相手を倒した武器ランキング
1位 弓矢、 2位 鉄砲、 3位 槍、 4位 石、 5位 刀。
🐨以外ですよね。。。
ちょっとびっくりしました!
■武将にまつわる博物館等の所在地
20位 上杉景勝・・・米沢上杉博物館(山形県)、新潟県立歴史博物館(新潟県)。
19位 竹中半兵衛・・菁莪記念館(せいがきねんかん)(兵庫県)。
18位 真田昌幸・・・真田氏歴史館(長野県)、上田市立博物館(長野県)、真田宝物館(長野県)。
17位 井伊直政・・・彦根城博物館(滋賀県)、井伊美術館(京都府)
16位 前田利家・・・前田土佐守家資料館(石川県)、石川県立歴史博物館(石川県)
15位 毛利元就・・・毛利博物館(山口県)、安芸高田市歴史民俗博物館(広島県)
14位 浅井長政・・・浅井歴史民俗資料館(滋賀県)、小谷城戦国歴史資料館(滋賀県)
13位 前田慶次・・・宮坂考古館(山形県)、米沢市上杉博物館(山形県)
12位 直江兼続・・・宮坂考古館(山形県)、米沢市上杉博物館(山形県)、与板歴史民俗資料館(新潟県)
11位 加藤清正・・・熊本博物館(熊本県)、名古屋市秀吉清正記念館(愛知県)
まとめ
20位から11位の人気武将は、主君が徳川家康、豊臣秀吉、織田信長、上杉景勝など、名だたる武将を支えた優秀な家臣だったことがわかります。
戦で効果的な武器の4位に「石」が出ていますが、足軽は農民が多く、刀や槍を使える物が少なかった。
投石の方が効果的にダメージを与えられたということですね。
🐨確かにいきなり刀とかわたされても、何もできない。。。
石ならば、よよちちでも投げられるかもしれないな。
代表的な武器で、槍は叩くもの、刀が突いて使うのだそうで、イメージを覆されました!
さて、10位から1位にはどの武将がランキングされたのでしょうか??
🐨続きはこちらです✨↓