こんにちは★
よよちち🐨でございます★
歴女人気武将の一人、大谷刑部(大谷吉継)。
よよちち🐨的には、そんなに有名じゃないのに何でこんな人気なんだろう、と思っていましたが、
歴史の勉強をしていると、どんどん引き込まれていきました。
胸が熱くなるエピソードがたくさんある魅力的な武将です!!!
ということで、今回は、大谷刑部(吉継)の人生は切なく美しい! のお話★
目 次
大谷吉継の人生を超簡単にサクッと
■秀吉に仕える
永禄2(1559)年生まれ、近江国(滋賀県)出身だと言われていますが定かではありません。
吉継の記録が出てくるのは秀吉に仕えるようになってから。
最初は小姓(今でいう秘書みたいな仕事)として仕えていましたが、後に馬廻衆(今でいうSPみたいな仕事)になります。
賤ヶ岳の戦い等で功績をあげて、どんどん秀吉に信頼されていきます。
■大谷刑部になる
秀吉が関白となると、刑部少輔の官位を与えられました。
「大谷刑部」と呼ばれているのはここからくるものです。
石田三成と一緒に奉行(今でいう官僚みたいな仕事)として秀吉の政治を支えていきます。
越前敦賀城主としても働いていました。
■天下分け目の関ケ原の戦い
秀吉は、自分の息子が大きくなるまで徳川家康に政治を任せることにしました。
あくまでも、息子が大きくなるまで。
そのために、1人の力が集中しないようにいろいろな決め事をしますが、あっさり破る家康。
三成は、家康の力が大きくなっていくのが心配だし、気に入らない。
でも吉継は、この時は中立の立場、というか、家康に協力するよって感じでした。
だんだん、三成と家康の溝が深くなっていきます。
こうして関ケ原の戦いが始まってしまうことになるのですが、吉継は、二人の仲裁に入ります。
このころ吉継は、もう病気が進み、体が自由に動かないし、視力も弱くなっていました。
そんな中、三成の城、佐和山城に行って「家康とうまいことやりなさい。戦やっても勝ち目ないからやめなさい!」と何度も説得しますが、三成の意志はとても固いものでした。
そして、味方になってほしいと頼まれた吉継は、石田方として戦うことになります。
関ヶ原の戦い、当日。
もう歩けない状態の吉継ですが、輿(コシ)に乗って参戦しました。
輿とは、お祭りのお神輿(オミコシ)の飾りがないような物です。
いつも顔を白い布で隠しているのは、病気のために顔が変形してしまっているのを隠すためでした。
関ケ原の戦いはわずか半日で終わりました。午前中で終了。
徳川方の勝利。
■大谷吉継の最期
関ヶ原の戦いでは、石田方の味方だった小早川秀秋の裏切りから始まってどんどん体制が崩れていき敗戦しました。
吉継は、1500の兵で、秀秋の15000の兵と戦います。10分の1の兵の数。。。
秀秋の裏切りを予想していた吉継は何回も押し返して、善戦するも崩れてしまいました。
そして吉継は自害。
三成は、逃走し、生き延びようと頑張りましたが、数日後に山の中で見つかり処刑されました。
親友石田三成とのエピソード
諸説ありますが、美しい友情のエピソードです。
よよちち🐨は感動――――(泣)
■秀吉の家臣になったのは三成のコネ
石田三成と大谷吉継は出身地も年齢も近いので、若いころから交流がありました。
吉継が秀吉の小姓(今でいう秘書みたいな仕事)になるのですが、これは三成の口利きだったそうです。
この二人がいなかったら豊臣家は成立しなかったと思います。
あのコロコロ気が変わる秀吉を上手に扱いながら、目まぐるしく起こる戦やら政の業務やら。
頭の回転が遅いよよちちは、もう大パニックだろうな。
二人は奉行として活躍したい、という共通の志がありました。
切磋琢磨して秀吉を支えていき、秀吉を天下統一へ導きました。
■三成との友情が深まった茶会
大谷吉継は当時、不治の病の「ハンセン病」に侵されていました。
当時ですから、病はもう命とりです。
今のように手術ができるわけでもないですし、原因も治療の仕方も良く分からない時代です。
ハンセン病ですから、見た目も悪いわけです。顔が変形してしまいます。。。
秀吉主宰のお茶会が開かれたときのお話です。
一口づつお茶を飲みまわしていくことになりました。
吉継が飲んだ後、そのお茶がストップしてしまいます。
次に飲む人達が嫌がったんですね。
吉継の顔もこわばってしまいます。
不穏な空気が流れる中、三成がこう言いだします。
「喉が渇いて仕方がない!早く茶碗を回してくれんか?」
三成はストップしたその茶碗を取り、一気に飲み干しました。
「全部飲んでしまったから、もう一杯茶を注いでくれ」
はーーーー。なんと。。。(泣)
当時の難病患者の飲んだ物を飲み干すんですよ。命がけと言っても過言ではないような行動です。
気の利いたセリフで、そのお茶会は滞りなく終えることができました。
三成ってワンマンで、堅物なイメージですが、こんな人間らしい優しい心を持っていたんですね。
もう感動しました。
吉継はこれに感銘を受けて、二人の友情はさらに深まりました。
関ケ原の戦い
■三成の味方になる
吉継は三成と違って家康ともうまくやっていましたし、周りに信頼される人物でした。
吉継は動かない体を引きづって三成の元へ行きます。
「家康と仲良くしなさいよ」そう言ったのですが、逆に「家康を討ちたいから味方になってくれ」と言われてしまいます。
この関ケ原の戦いは、徳川優位となんとなくみんな分かっていました。
三成も、もしかしたらそれとなく感じていたかもしれません。
三成の性格上、歯止めが利かなくなってしまったのかもしれません。
「お前は横柄で人望が無いから人が集まらない」
ズバッとはっきりと言いました。信頼関係がある証拠でしょう。
それでも三成の意志は固く、変わることはありませんでした。
そして、味方になる決意をした吉継は、各地の大名に手紙を書きます。
(手がもう動かないので、代筆してもらった)
反対した吉継ですが、味方になる、と決めてからは、三成のために全力を尽くし死んでいきました。
■大谷刑部(大谷吉継)の最期
関ケ原の戦いで自害した武将はただ一人。この大谷吉継だけ。
そして、自害する時も壮絶でした。
頭が良く鋭い大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りを予想していました。
だから、自分の部隊を小早川軍の隣に配置して戦うことにしました。
そして戦が始まると秀秋は案の定裏切り、大谷の部隊に攻めてきました。
吉継は、秀秋の裏切りの準備ができていたので、兵の数は10分の1ほどだったにも関わらず、最初は善戦するのです。(すごい戦術眼ですよね!)
でも、だんだん崩れていってしまうのです。。。
吉継は裏切り者の秀秋に向かってこう言います。
「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん!」
意味は、人の顔をしていても心はそうではない。小早川、お前の事を呪ってやるからな。
こわーーーーーい!
吉継は「義」に熱い人だったから、余計に裏切り者を許さなかったのだと思います。
こう叫んで自害したと言われています。
(小早川秀秋はこの言葉を浴びせられて、恐怖でうつ病になって死んだ、という説もあります。)
吉継は首を敵にばれない場所の土の中に埋めるように、と側近の湯浅五助に指示していました。
そこで側近は、吉継の首を土に埋めようとしていたところ、東軍の敵の武将藤堂高刑に見つかってしまいました。
湯浅五助は、「おれの首を渡すから、吉継様の首のありかは秘密にしてくれ。吉継様との約束なのだ」と言います。
そこで、敵側の武将藤堂高刑は、「わかった。約束する」と言って湯浅五助の首を持ち帰り、家康に渡しました。
家康は「こいつは吉継の側近だな。ならば行方不明の吉継の首の在り処をしっているのではないか?言え!」と言いますが、
藤堂高刑は、「家康様でも言えません!湯浅五助と約束をしたのです。男と男の約束です。いくら家康様でも言えないのです!」と言ったのです。
なんと男気のある人なんだ。。。🐨かんどーーー
家康はこの話を聞いた時に、激怒するかとおもいきや。。。
「感動した!」と言ってそれ以上何も言わなかったそうです。
藤堂高刑は、吉継の首を差し出せば大手柄になって、褒美もたくさんもらえたでしょうに、それよりも男同士の約束を守ったんですね。
そして家康は、この家臣に「なんと誠実な男だ」と褒美まで与えました。
そして、このことを周りの家臣たちも何も言わなかったそうです。
家康の家臣たちは、もともと秀吉の家臣であったので、少し前までは一緒に秀吉の元で働いていたわけですから、吉継のことも知っているわけで。。。
みんな、大谷刑部に敬意をはらっていたのかもしれません。
そして、敵方の武将なのに、吉継と側近の湯浅五助のお墓まで立ててあげたそうです。
いい話だ。。。
おわりに
大谷刑部は、人間的にも魅力的で信頼される人でした。
ちょっと切ないけど、最後まで「義」を貫いた人でしたね。
石田三成も、かっこいい人ですね。
この二人のエピソードを知るまでは、
「仕事はできてもこの性格じゃーいやだな」とか「冷めた人だなー」とか思っていましたが、
イメージがだいぶ変わりました。
石田三成は、豊臣家を守るために必死だった。
負けると分かっていても三成と一緒に戦った大谷吉継。
この二人の「義」に感動しました。
⚔ほかにもかっこいい武将いっぱいいます⚔