こんにちは★
こもって歴史に浸りながらお勉強しているよよちち🐨です🌟
今回で、「徳川四天王」の事を全員書くことになります⚔
※名前をクリックするとその人の記事に飛べます🐨
⭐本多忠勝
⭐井伊直政
⭐酒井忠次
⭐榊原康政(今回お話する人)
ということで、今回は、榊原康政のお茶目でかわいくて人間らしく生きた生涯 のお話🌟
目 次
※本文では榊原康政の名前を「康政」で統一しています。
1548年 現在の愛知県豊田市で生まれました。
父は松平家の家臣・酒井忠尚に仕えていた榊原長政、母は道家氏の娘です(名前不明)。
幼い頃の名前は「亀」でした🐢。
幼いころから本を読むことが大好きで、字を書くことも得意でした。
その才能は周囲に認められ、12歳で松平元康(後の徳川家康)の雑用係に任命されたのです。
主な仕事は、元康から手紙の代筆代読を頼まれたり、日常生活の雑用や、戦のお供など。
そんなある日、活躍する姿を称えた優しい先輩武士が、元康(家康)の直属の部下になったお祝いに、「中古の甲冑」をプレゼントしたのです。
それは擦り切れてボロボロだったけど、亀は大切に修理しながら使っていました。
その後に、偉くなって、お金持ちになってからも、戦の度に修理しながら愛着していて、部下よりもボロボロの甲冑を着ていたらしい。
🐨なんか偉いよね、そういうの✨
初心忘るべからずです。
1563年 亀15歳。
初陣は三河一向一揆。
今川軍との戦いの準備で、農民から年貢を取りすぎて逆襲にあったという話。
そのさなか、父が仕えていた主君・酒井忠尚の部下が浄土真宗の寺に不法侵入して寺を敵に回してしまいます。
これをきっかけに大勢の見方が徳川家康の元を離れてしまいました。
残った味方は、神仏を敵に回すなんて罰が当たる、と、士気はダダ下がりに。。。
ここで康政は皆の士気を上げる為、「神罰は俺が全て引き受けてやる!皆は恐れずに存分に戦ってくれ」と言いました。
家康軍の士気は一気に上がり、一向一揆は無事に鎮圧されました。
この活躍を家康から表彰され、名前に「康」の字を貰い「榊原康政」となりましたー!
1566年 康政18歳。
徳川四天王の一人、本多忠勝と同じ旗本の侍大将(総勢300人程の部隊の大将)に任命されました。
1570年 康政22歳。
織田・徳川連合軍VS浅井&朝倉連合軍の戦いに参戦。
この戦は3年に渡りましたが結果は織田・徳川連合軍の勝ち。
犠牲者の数は数千にも及び、川が血で染まったとも言われていて、激戦でした。
(古戦場の近くには「血原」や「血川」という地名が残るほどでした🐨)
1572年 康政24歳。徳川軍VS武田軍(信玄)三方ヶ原の戦い。強力な武田軍の布陣に大敗。
1575年 康政27歳。徳川軍VS武田軍(勝頼)長篠の合戦。内藤昌豊隊の本陣突撃から守った。
1581年 康政33歳。徳川軍VS武田軍(勝頼)高天神城の戦い。武田軍が致命的に失墜。
1582年 康政34歳。信長に招待されて、大阪の堺をお散歩していた時に、家康と家臣達は「本能寺の変」を知らされ、身の危険を察し、伊賀の峠を越えて逃亡。この「伊賀越え」に同行。
1584年 康政36歳。徳川・織田軍(信長の息子の信雄が総大将)VS豊臣秀吉。小牧・長久手の戦い。
1590年 豊臣軍VS北条氏 小田原城攻略。
重要な戦にほとんど参加しています!
康政は小牧・長久手の戦いで、敵の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を挑発しました。
秀吉の、出身コンプレックスを罵り、
「信長様から拾ってもらった恩義を忘れ、織田家を陥れ亡き者にするつもりだ」
「世を乱す極悪人、天罰が下るぞ」
こんな感じの書状を送ったのです。
これに秀吉は大激怒。
康政の首に10万石という破格の懸賞金がかけられたのです。
現代でいうところの数十億円の価値らしいです!
秀吉めちゃ怒ってます!(笑)
この小牧・長久手の戦いの結果は、両者引き分けという感じでした。
🐨正康っておもしろっ!こんな大金の懸賞首ってすごくない??
康政は数々の実績を作り、徳川の家臣として、徳川四天王のとして知られるようになっていきました。
1590年 家康が江戸に入国。
この時、康政は10万石をもらい、群馬県の館林城主となりました。
館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ、日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で郷土館林の礎を築きました。
1600年 康政52歳。
家康は、関ケ原の戦いで、徳川秀忠(家康の次男)に付き添う別動隊として本陣に合流する作戦を立てたのですが、秀忠隊(康政も)は、真田軍の上田城攻めの最中だったので、家康は秀忠隊に使者を送ります。
しかし、秀忠隊は合戦に大遅刻。
これに家康は秀忠と康政に激怒!
戦の後しばらく、会うことすらしませんでした。
困り果てた秀忠は康政に頼り、康政は家康の説得を試みます。
「家康が送った使者は、悪天候で川が氾濫し足止めされていたのです。
秀忠隊の元へ到着した時は、時遅しだったのです。
致し方無い事ではないですか、なぜ耳も貸さないのか。それでも君主か」。
さすがに家康の頑固もほどけ、秀忠を許したそうです。
やがて戦国の世が終わり江戸時代になると、平和になった世の中には頭脳派が幅を利かせるようになります。
活躍してきた武闘派の家臣達は、身を引くことにしました。
康政も嫌気がさしていたと共に、もう居場所がなくなったと感じて、潔く引退しました。
今まで命がけで支えてきたのに。。。
うーーーん。。。
康政に限らず、徳川四天王の最期ってちょっとかわいそうな感じなんだよなー。
命を懸けて戦ってきた武闘派がおざなりになっちゃう感じ。。。
平和になった証拠なんだけど、ちょっと切ないですね。。。🐨
康政は病に倒れ床に伏せると、家康は医者や家臣を見舞いによこすなど、気を遣ってくれました。
しかし・・・最初だけでした。
「殿が見舞いに来てくれない!」とふてくされ(笑)🐨かわいいねーー。
「はらわたが腐ってもう死ぬ!そう殿に伝えてくれ!」と布団をかぶっていじけていたそうです。ふふ。
しかし。。。
それからしばらくして、1606年 康政58歳。
この世を去りました。
井伊直政が先方隊長に任命された時のことです。
井伊直政は、康政の13歳年下。
康政は、
「なんでおれじゃないのだ!あのクソガキと刺し違えてやる!!」と
ジェラシー剝き出しにして怒っていたら、徳川四天王の一人である酒井忠次に怒られたそうです(笑🐨)
感情をむき出しにする素直な性格なのですね✨
直政にジェラっていた康政ですが、
「直政より自分が先に死んだら、直政も病気になるだろう。もし直政が先立つようなら、自分も遠からず死ぬだろう」という関係でした。
井伊直政は関ケ原の戦いの傷が癒えず、1602年に亡くなりました。
そしてその4年後追いかける様に康政も病で亡くなったのでした。。。
榊原康政という人物は、幼少から読み書きが得意で、若くして家康の側近になるほど優秀でした。
数々の修羅場を切り抜けた実績から徳川軍の四天王と呼ばれるようになりました。
一番が大好きで、誰かが目立つとすぐにジェラシーむき出しになる、超負けず嫌いで分かりやすい性格。
武士としての「生き方」にポリシーを持ち、義や筋道を大事にしていて発する言葉には重みがありました。
心を読む冷静さを持ち、上司、部下、同僚から信頼され、どこかチャーミングな一面も持ち合わせて人気者でした🌟
とても人間らしくて、とても強くて、かわいい武将だなーと思いました🐨✨
今回で、「徳川四天王」のお勉強はおしまいです。
今回の榊原康政です。
🐨徳川家に関係している武将↓合わせて読んでみてください✨いろいろつながってくると思います⭐