【ランキング】10位~1位★人気戦国武将2700人総選挙をサクッとまとめといた★

こんにちは★

歴女なよよちち🐨です🎵

 

年末に放送された「国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙」

せっかくだから、この番組を観ながら、よよちち🐨なりに、復習しながらまとめてみました🌟

20位から11位はこちらです✨↓

※テレビ朝日 2019年12月28日放送分 抜粋※

🐨マークはよよちちも大好きな武将です🎵

ちょっと注目して見てください✨

 

 

■第10位 石田三成(滋賀県)享年41 🐨

勉強が得意で頭が良い、豊臣秀吉の右腕として天下を支えた。

実直で、誠実、真面目な性格。

領地を図る寸法が地域によってバラバラで、申告は21万石だったけど、実際に検地したら58万石だった(過少申告)こともあったので、三成が物差しを作り全国を検地しなおして日本全国の税金の不正を正した。

関ケ原の戦いで西軍の代表として徳川家康と大激戦を繰り広げ敗北。逃走し隠れたが、田中義正という武将に捕まり処刑。田中義正の手柄は30万石の領地を貰いました。

処刑される前に、警護人が柿をあげようしたけど、三成はお腹が冷えるからいらないと言い、警護人に笑われたが、大志を抱くものは最後まで命を惜しまないと言い残したそうです。

🐨詳しくはこちら↓

石田三成の人間性が分かる厳選エピソード集★コミュ力0で不器用すぎて笑っちゃう!

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■第9位 明智光秀(京都)享年不明

織田信長の家臣。

最初は、信長や部下たちの通訳や礼儀作法を教える役として採用されていたが、側近にまで大出世。

派遣から副社長に昇進したようなものだって。

軍対をまとめるのが上手だった。

鉄砲が流行ることを想定して、細かい軍法(私語禁止、整理整頓など)を制定。

愛妻家だった。婚約者が結婚前に疱瘡を患って顔に傷ができてしまい、婚約者の父が妹を差し出そうとしたが、僕はお姉さんを女性として愛するといい結婚した。

比叡山西教寺を焼いた後、すぐに人を集め3年かけて再建した。

本能寺の変の1年前に部下に対して手紙を残した。

「私の様な水に浮かぶがれきの様な存在だったのに救ってくれた。

一生懸命努めれば上は必ず救ってくれる。

私は信長様のおかげでここまでやってこれた。」部下達はこれに感嘆。

主君信長に謀反を起こした本能寺の変。

信長が本能寺に宿泊したのは予定外だったという史書があるので、本能寺の変は突発的だった事が有力視されている。

子孫と称する?者が現存。書籍を出す者や、自称ミュージシャンもいる。

 

■第8位 黒田官兵衛(福岡県)享年59

57戦無敗、豊臣秀吉が最も恐れた人物。豊臣秀吉の家臣ナンバー2。備中高松城の水攻め、中国大返しを指揮したことで有名。

本能寺の変の後、明智光秀の動きを止めるために、「信長は助かった」と他の家臣達に書状で伝えた方が良いと提案。

真に受けた光秀は孤立し身動きが取れなくなった。これによって、秀吉が天下を取ることができた。

天才であるがゆえ、官兵衛は、秀吉は自分を恐れている事を知り、「私には野望などありません」といい出家し、名前を「如水=私は水の様な気持ちです」と変えました。

 

■第7位 武田信玄(山梨県)享年53 🐨🐨

甲斐の虎と呼ばれ、織田信長も恐れた武将。

🐨よよちちが1番好きな戦国武将です💜

徳川家康との戦では2時間で勝利、家康はその死の恐怖を生涯の教訓にしたそうです。

侵略戦争に長けていたが、本拠地を動かさないので、天下を取るためではなく甲斐の国を守るために侵略戦争をしていた。

優秀な土木王として有名。洪水で民の生活や農業に打撃を受けたことで改良工事を考案させた。

周辺地域の地形を変えたり、川に信玄堤(石積)を作ることで川の流れを弱めることで洪水から甲府盆地を守りました(現存・御勅使川の石積出しを見ることができます)。

温泉を大切にしていた、戦で傷ついた兵を癒すため、温泉を所有していた。

石積は作ったけど、自分の城は作らなかった。

信玄の名言「人が城である」が物語っている。

子孫16代目が現存。

ご長男が甲府市役所に勤務していることを公表しています。

🐨信玄のお話はこちら↓

【武田信玄】戦国武将の考え方に惚れる!名言とエピソード★歴女になる!

 

■第6位 豊臣秀吉(大阪府)享年62

農民からの仕上がり、織田信長に仕えていた。本能寺の変の後、明智光秀を討ち取り、中国四国九州を治め、武将で初めて征夷大将軍、国のナンバー2まで成り上がった。

秀吉は戦わずして戦うのがセオリーだった。

金ピカの城を作り、経済力をアピールし戦意喪失させた。

信長の肖像画を描き替えていた。京都国立博物館によると、派手な信長の容姿を地味に描きかえる事で、「これからは秀吉の時代だ」と世に知らしめるために行ったと推測されている。

当時流行っていた色違いの片小袖を普通の着物にして、2本差しの刀を1本にしたそうです。

秀吉は自分の権威の為に、嘘をついたのですね。

敵対していた大名に対して、豊臣の名を与えることで家族のように扱い、戦わずして地位を安泰にした。敵対していた毛利家の豊臣の姓を与え、豊臣元就に改名し服従させています。

 

■第5位 徳川家康(東京)享年74

静岡を拠点にし、主君を信長や秀吉と替え、やがてしのぎを削る様になり、関ケ原の戦いでは豊臣家率いる西軍に勝利しました。

その後江戸幕府を開き、戦の無い時代を260年維持したまさに泰平の世を築いた武将。これは、世界史でも類を見ない偉業だそうです。

湿地帯だった江戸を人の住める街に埋め立て改良し、現在の東京の礎を築きました。

日本史上最大の城、静岡の駿府城。かつて秀吉が使っていた城の約4倍超もの巨大な城だったことがわかりました。その大きさにより西軍の戦意喪失させる効果が高かったそうです。

現在19代目が現存。

 

■第4位 真田信繁(長野)享年49

真田昌幸の次男。大阪冬の陣では劣勢の中、出城「真田丸」を作り徳川軍に応戦し引き分けに持ち込み、信繁の力を世に示した。

続く大坂夏の陣では徳川軍をあと一歩まで追い詰めるほど大活躍し、家康に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言わしめた。

結果は敗戦し討ち死にするが、自分の死に際を求め滅びの美学を体現したと言われている。

歴史書において真田信繁が登場するのは大阪夏の陣1回だけで、信繁に関する資料は少ないそうです。

真田信繁は赤い甲冑をまとい十文字の槍を持つイメージですが、普段は黒い鎧だったそうです。十文字の槍ではなく、実は1本槍だったのです。

🐨ちょっと残念。。。

第13代目子孫が現存。

🐨くわしくはこちら↓

歴女に大人気真田幸村ってどんな人?超わかりやすく解説★イケメンはうそ??

 

■第3位 伊達政宗(宮城県)享年70

18歳で伊達家の当主になり会津地方を中心に勢力を拡大。天下統一目前の豊臣秀吉は何度も部下になれとオファーがきていた。

武力も優れたが、スパイ工作も得意としていた。ヨーロッパに外交団を派遣するなど、外交にも優れていたのです。

自己アピールを重んじていたことで有名。代表的なのが、瑞巌寺の黄金の部屋は金箔障子が161枚もあります(現存)。障子には鷹が鴨を狩る絵が描かれていて、カモにされてはならないと家臣達へ教えていたそうです。また、自身が座る場所の背に火頭窓という太陽の光が差し神々しく見える様に作られています。

豊臣秀吉に上洛を命じられた際に、大名達は正装し煌びやかな装飾をまとっていたが、伊達政宗一向は真っ黒な鎧をまとい大変目立っていたそうです。

グルメでも有名。スペインとの交流から牛ステーキを真似て、日本初ステーキ(鯨肉)を考案、正月料理で有名な鮭子篭も作ったそうです。

直系子孫18代目が現存。

🐨詳しくはこちら↓

歴女に大人気の伊達政宗ってどんな人で何をした人?実はよく知らないから勉強した★

■第2位 上杉謙信(新潟)享年49

現在の新潟県(越後)を治めていた。「戦は人のため世のため」私利私欲ではなく、義の精神を重んじていた。

武田信玄、織田信長としのぎを削った軍神と呼ばれた武将。川中島の戦いでは、武田信玄と12年に渡り5回も戦ったが決着つかないほど武田信玄もてこずった程強かった。

飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長軍勢を、手取川の戦いで撃破し、信長は弱いと言ったそうです。

部下の士気を高めるのが上手だった。大将自ら先陣を切り、軍を勢いに乗せていた。

また、大切な部下を鉄砲から守る為に防具を鉄の車傘を開発してあげたり、出陣前にオカズ10品以上の豪華な戦飯を振舞ったりしていました。謙信の料理番はとても料理が上手で好評だったそうです。

ちなみに謙信女性説がありますが、最近妻がいたことを示す資料が出たそうです。男同士か女同士か。。。???

🐨詳しくはこちら↓

上杉謙信の逸話と謎★川中島の戦いや女性だと言われる理由などわかりやすく解説★

 

■第1位 織田信長(愛知県)享年49

愛知県では名もなき大名だったが、桶狭間の戦いにて織田軍3000VS今川軍25000の圧倒的不利な状況で今川義元を撃破し、世にその名を轟かせた。

長篠の戦いでは、徳川家康と同盟を組み最強と言われていた武田軍を撃破。

天下統一目前で、家臣の明智光秀が謀反を起こし自害に追い込まれ潰えた。明智光秀が謀反を起こした理由は誰もしりません(確たる資料が無い、公表されていない)。

新しい物、文化、新しい事を始めるのが好きだった。

・ポルトガルとの交流で鉄砲を輸入し、初めて戦に鉄砲を取り入れました。

・キリスト教の宣教師たちと交流がありその文化を取り入れていました。

・民が城下町で商売しやすいように楽市楽座を開いた。

・大型の天守を持つ豪華絢爛な安土城を築き、年に何回か家臣達を城に呼び入場料を一人100文、現在の約1万円を取っていたそうです。

・イエズス会宣教師達が安土城を訪問すると決まった時に灯籠を仕込み、ライトアップをしてもてなし、宣教師たちは感嘆したそうです。

戦の強さだけではなく、新しい事に挑戦するパイオニアだった。

 

 

■秀吉の信長への孝行話

秀吉が信長の草履を懐で温めたのを喜ばれ、気に入られて出世したというエピソードは江戸時代後期の作り話だった。

 

■足軽の主力武器は槍か石だった

大抵、足軽の約7割は農民で、刀を使える者がいなかった。

農民同士の敵討ちでは刀を構えたまま6時間こう着状態が続くほど、刀も使えずビビッて切ることも出来なかったのです。

石なら身を隠し不意打ち狙いができますし、槍なら敵と距離を取りながら攻撃できることから、主力となっていました。ちなみに槍自体は使い捨てだった様です。

 

■どうやって戦の時の軍勢を集めるのか

農民などに向けて足軽の募集を行います。

「戦あるけど参加しませんかー??」という感じです。

足軽の標準日当は今の金額で約1万円でした。

 

■鎧兜の飾り 

アピールするツールでもあったようです🌟

ウサギ・・・情報収集

ムカデ・・・絶対後退しない

鹿・・・・・戦神の使い

崖・・・・・源平の戦い(奇襲)

六文銭・・・三途の川を渡るときの船賃

 

■武将関連資料の所在地 ※一部のみ記載

石田三成・・・関ケ原町歴史民俗資料館(岐阜県)、石田会館(滋賀県)、三春町歴史民俗資料館(福島県)。

明智光秀・・・岐阜市歴史博物館※麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館(期間2020年1月11日(土)~2021年1月11日(月・祝))、京都市考古資料館(京都府)、大山崎町歴史資料館(京都府)。

黒田官兵衛・・黒田官兵衛資料館(大分県)、飯塚市歴史資料館(福岡県)。

武田信玄・・・歴史博物館 信玄公宝物館(山梨県)、甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)(山梨県)※期間限定注意。

豊臣秀吉・・・名古屋市秀吉清正記念館(愛知県)、神奈川県立博物館(神奈川県)。

徳川家康・・・徳川美術館(愛知県)、久能山東照宮(静岡県)。

真田信繁・・・上田市立博物館(長野県)、真田宝物館(長野県)。

伊達政宗・・・仙台市博物館(宮城県)、瑞巌寺(宮城県)。

上杉謙信・・・米沢市上杉博物館(山形県)、宮坂考古館(山形県)、新潟県立歴史博物館(新潟県)。

織田信長・・・滋賀県立安土城考古博物館(滋賀県)、信長の館(滋賀県)。

 

 

まとめ

よよちち🐨の大好きな「武田信玄」は「7位」という結果になりました。

もっと上位だと思ったんですけど、残念💦

 

あと、大好きな可児才蔵や、立花宗茂島津義弘なんかは、20位以内には入っていませんでしたーーー

みんな、まだこの人達の魅力を知らないんだろうなー。

知ったらきっと好きになっちゃうはず!!

(名前のところぽちっとしたら詳しい記事に飛べます🐨)

 

やっぱり、メジャーどころの「伊達政宗」「上杉謙信」が上位でしたね。

1位の織田信長は予想通り。

不動の1位ですね。やはり大人気!

 

🐨ほかにもいろいろな歴史に関するお話をしています🐨

ゆるゆると読んでみてください🌟

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