こんにちは★
歴女なよよちち🐨です🎵
「国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙 30位~21位」
以前は20位~1位だったのですが、特別編として30位~21位分が追加されて放送されました🌟
今回もよよちち🐨なりに、復習しながらまとめてみました🌟
ちなみに20位から1位はこちらです✨↓
⚔【ランキング】人気戦国武将2700人総選挙をサクッとまとめといた★20位~11位
【ランキング】10位~1位★人気戦国武将2700人総選挙をサクッとまとめといた★
※テレビ朝日 2020年4月27日放送分 抜粋★+独自調査●※
★・・TV
●・・独自調査
🐨マークはよよちちも大好きな武将です🎵
ちょっと注目して見てください✨
では行ってみましょう~🎶
目 次
★剣豪柳生十兵衛の父。
★徳川家康に剣の腕を認められ、初代家康・2代目秀忠・3代目家光の代まで、剣術指南役を勤めた。(新陰流)
★剣術がとにかく凄い、剣の腕だけで大名になった。一介の剣士から大名になったのは宗矩ただ一人。
★日本の武芸や武術に大きく貢献した。
●主な戦績は、関ケ原の戦い、大阪夏の陣。大阪夏の陣では瞬く間に7人の侍を撫で斬り。
●国家公務員、政治家も兼任していた。
●年老いても、背後に殺気を察することができた。
★織田信長が最も信頼していた家臣。
★上杉謙信を苦しめた戦国一の鬼武将と呼ばれている。
●主な戦績・・姉川の戦い、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなど24戦。
●ルイスフロイスによると、信長の中心的武将2人のうち一人。一生を軍事に費やした。
●最もポピュラーで最も苦痛の大きい切腹、十文字切で自害。
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★57戦無敗。
★14歳初陣の時、叔父が敵を捕まえて「忠勝、お前の手柄にしろ」というが、忠勝は「自分で討ち取らなきゃ嫌だ」と断り、敵陣に乗り込み手柄を自分で勝ち取った。
●徳川四天王の一人。
●主な戦績・・姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦いなど57戦。
●姉川の戦いでは敵の朝倉軍1万に対して単騎で突撃する程の猛将だった。
●長篠の戦いの後、物憂げに「武田の惜しい武将達を亡くした、今後戦で血が騒ぐことは無いだろう」と言っていた。
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★信長、秀吉、家康に仕えた、初代土佐藩の大名。
★顔に矢が刺さったまま戦った。
●主な戦績・・姉川の戦い(初陣)、高松城の戦い、長久手の戦い、米野村の戦い(関ケ原前哨戦)。
●馬揃えという儀式で、一豊の妻は密かに貯蓄していた黄金で良馬を買って、夫の面目を守った。
●土佐の国主になってから食中毒防止の為生魚を禁止したが、県民が鰹のたたきを開発した。禁止されたことがきっかけになり今に伝わる。
★明智光秀と親戚関係。織田信長の義理の父。
★戦国一出世した武将。下克上はせいぜい2ランクアップ。道三は国主まで登り詰めた下克上のカリスマ。
★うつけと噂されていた織田信長の能力を見抜いた。
●長男である龍興と確執が長期化し、戦に発展して、討ち取られる。道三は龍興を無能と決めつけていたが、戦の采配を見て「龍興の評価を間違えていた」と後悔した。
●元は油売りの行商人で、「油を注ぎながら一門銭の穴を通す」という芸をしていた。
●織田信長の師匠的な存在だった。
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★真田幸村の兄。
●武田、徳川家に仕えた武将。
●主な戦績・・神流川の戦い、川中島の戦い。
●敵5000が守る手子丸城をわずか800で、しかもたった一日で奪還する頭脳派。
●40代以降病気が続き、50代でマラリア寄生虫症を患い、時々発作を起こしていたのに、93歳という長命だった。兄は病気と闘っていたんですね。
★徳川家康圧倒的有利の戦況の中、出陣に反対したが、石田三成との友情をつらぬいた。
●石田三成と共に豊臣秀吉に仕えた。
●キリスト教を信仰していた。
●仲良しの石田三成は徳川家康を敵視していたけど、吉継は家康と仲良しだった。
●関ケ原の戦いで敗退。裏切った小早川秀秋の陣に向かって「顔も心も獣になった、三年経つまでにお前を呪ってやる」と言って自害した。この2年後に秀秋は狂乱して死亡。
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★弱々しいイメージは江戸時代から面白おかしく描かれたものだった。
★家督争いにも勝ち、領地支配にも成功した大戦国大名。
★武田信玄をも圧倒していた。
●領地が静岡県中部、静岡県西部、愛知県豊川市と広大だった。
●桶狭間の戦いの直前、犬猿の仲だった異母兄が夢に出てきて「出陣をやめよ」と言った。
●桶狭間の戦いで斬首される寸前、敵の指を食いちぎった。 こわ💦🐨
★室町幕府13代目将軍。
★巧みな政治力で統治、落ち目だった幕府の権威を復活させた。
●実は剣豪だった。押し寄せる敵を、次々に刀を変えながら切りまくった。
●最後に詠んだ句「しとしとと降り続く五月雨は、ただの雨か、それとも無念を残し死にゆく涙か、誇りを捨てずに戦って死んでいく私の名声よ、雲の上まで届け」。
★武田信玄が最も信頼した武将。天才軍師ね🐨
●大阪府藤井寺市の伝統工芸品「小山うちわ」は、勘助が三好家の動向を探るために藤井寺市に潜伏し、隠れ蓑としてうちわを作ったことから伝承されている。
●武田滅亡後、息子が徳川家康に仕えていた。
●勘助のポリシー「戦はわが人生の如し」
●伊賀の忍者・藤林長門守保豊から伊賀流忍術を伝授している。
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30位から21位にランクインしたのは、有名な、下克上され討ち取られた将軍、天下統一した主君に仕えた名武将、有名大名達でした。
その中で最も下克上した武将は、斎藤道三でした。油売りの行商から、侍の一言がきっかけで武将を目指し一国の主にまで上り詰めました。
順位に関係なく、高い誇りや、人知を超えた能力、戦に人生をかけていた事が、武将達の残した言葉に表れています。
「戦はわが人生の如し」
「誇りを捨てずに戦って死んでいく私の名声よ」
「友情をつらぬき出陣」
「武田の惜しい武将達を亡くした、今後戦で血が騒ぐことは無いだろう」
「年老いても、背後に殺気を察することができた」
武術、戦術、戦略、謀略、剣術などを身に付け鍛錬し、命をかけて戦っていました。かっこいいなー🐨
自分だけ強くても、組織が弱ければ、生き残れない。ならば主君を変えればよい。
または、忠義を尽くして組織と共倒れする、生き方は武将それぞれでした。
31位から100位バージョンもぜひやってくださーーーい!!
🐨ランキング外ではあったけれど、かっこいい戦国武将達↓読んでみてください🌟