島津義弘の生き様がかっこよすぎる!島津四兄弟や得意な戦法も解説★

こんにちは★

戦国武将好きなよよちち🐨です★

今回は、その中でも大好きな武将「島津義弘」 のお話です★

 

義弘の生涯を簡単にサクッと

■島津家の次男として生まれました

「鬼島津」と言われるようになる義弘ですが、最初はかわいい男の子。

島津家の次男として薩摩(いまの鹿児島県)に生まれました。

島津家は4人兄弟で全員が優秀でした。(詳しくは後程)

長男義久とは2歳、3番目の歳久とは5歳、4番目家久とは12歳離れていて4番目の家久は母親が違うのですが、4兄弟の絆は深く、協力しあって島津家をどんどん大きくしていきました。

下の2人は若くして亡くなっているので、歴史上によく出てくるのは、長男義久次男義弘です。

■大人になった義弘

義弘は19歳で初陣を果たします。自ら敵将の首を取るなど、みごとな初陣となりました。

しかし、その後の戦ではうまくいかないこともありました。

後には「鬼島津」と言われるようにはなりますが若いころは苦戦することもあったのです。

父親から兄義久が家督を継ぐことになりました。

義久は政治を行ったり、戦の戦略を立てたりと、「頭」を使い、

義弘は、戦で総大将を務め弟の2人と一緒に武功をあげていくという、「体」を使って島津家の勢力を伸ばしていきます。

このように協力しながら島津家は破竹の勢いで、九州を北上しながら平定していきます。

■秀吉登場

が、しかし!

突如ストップせざるを得ない事態になりました。

島津家に戦で負けて嫉妬しちゃった大名が、豊臣秀吉に助けを求めたのです。

さすがの島津家も、秀吉の兵力にはかなわないと、兄義久は、「降伏する」という苦渋の決断を下します。

しかし、弟たちは、「まだ戦う!相手になってやるぜ!!」と言います。

義弘が戦の達人なのは分かっていますが、さすがに兵の数が違いすぎます。

なんとか、義久は弟たちを説得。そして降伏することにして、島津家は家と領地を守りました。

が、しかし!

またしても秀吉の手が。。。

さて、降伏し、島津家は秀吉の傘下になりました。

しかし、島津家の勢力は恐れられていました。

「島津家でごわすが、何か問題でも?」という強気な姿勢な島津兄弟。

「この兄弟たち、怖い。。。政治力も軍事力も半端ない。これ以上大きくならないようにしとこ」と

秀吉はこの兄弟の仲を悪くして、内部抗争を企てます。

が、島津家にはそんなものは通用しませんでした。

頭の良い兄弟は、秀吉の策を見抜いていたのかもしれません。

結束力の強い兄弟の仲が悪くなることはありません。島津兄弟の内部抗争など、ありえないのです★

■文禄・慶長の役と秀吉の死

秀吉は、海外に目を向け始めます。

文禄・慶長の役と言われる朝鮮出兵です。

島津義弘隊も行くことになりました。

秀吉の期待通り、義弘は奮戦し、功績をあげます。

少ない兵で、敵の大群を打ち破ったり、敵将の首を取ったり。

しかし、そもそもこの朝鮮出兵は厳しいものでした。

気候も違うし兵糧も足りずに、餓死や凍死してしまう兵がたくさんいました。

しかし、義弘は部下達をないがしろにしなかったために、義弘隊の中からは餓死、凍死者はほとんど出ませんでした。

そういう優しい気遣いができる人間味のある人でした。家臣からの信頼も強いわけです。

この朝鮮出兵は、結果的には悲惨なものでした。

でももしかすると、これが秀吉の狙いだったのでは?

日本を統一した秀吉は、地方の勢力がある大名達の力を弱くさせる作戦だったのかもしれません。

謀反を起こさせないために、朝鮮出兵をしたのかもしれません。

しかし、、、2回目の朝鮮出兵の時に、秀吉は死を迎えます。

これで、秀吉の島津家への嫌がらせはいったん終了。朝鮮出兵も中断。

■関ケ原の戦い

秀吉の死後の2年後に関ケ原の戦いが勃発。

兄の義久は、「関ケ原の戦いには参加しません。見物してます」という考え。

弟の義弘は、「徳川家康から頼まれたから参戦する!」と兄弟で意見が分かれました。

当主の義久は「兵は出してやんないよ。勝手に行きなさい。俺は知らないからねー」

義弘は「俺は行くぜ!ついてきてくれる人いたら来てね」という感じで大阪へ向かいました。

義弘と一緒に戦うことを決めた1500人は、義久が行くなら力になりたい!どこまでもついていくぜ!という義弘親衛隊でした。

さて、大阪に着きましたが、大阪はすでに敵方の石田三成の兵であふれていました。

義弘は「家康の援軍で来たけど家康いないし、お城入れないし、行くところないし」ということで、なんとなく石田三成軍の味方になりました。

さて、戦が始まりましたが、島津隊は、様子を見ていました。

せっかく来たのに扱いもひどいし、なんとなくやる気も出ないですよね。

そうこうしている間に、あっという間に石田軍の敗北となりました。(半日で終了―)

島津軍も撤退しようとしますが周りは敵だらけ。

ポツンと島津軍だけが取り残されてしまいました。

しかも敵方の「徳川四天王」の井伊直政や、本田忠勝の部隊までいる。。。(恐ろしすぎる)

さすがの義弘も「もうこれはダメだ。。。ここまでか・・・」と自害しようとしますが、

義弘親衛隊によって止められます。

そこからはあの有名な「島津の退き口」が始まります!!

なんと、東軍に向かって真正面から突撃します!もう壮絶な戦いをしながら突破していくのです。

作戦としては、「捨てがまり」というもの。(後で詳しく書きます)

これは、兵が犠牲にならないとできない戦法なのです。

でも、義弘は、家臣からとても慕われていました。部下たち義弘親衛隊は躊躇なく敵に向かって盾になり犠牲となって義弘を逃がしました。

徳川四天王の部隊まで突破して井伊直政に鉄砲を当て落馬させています。

家康もびっくりの退陣劇でした。

なんとか、船にのって九州まで帰ることができました。

義弘は、「兄に反対されたのに戦に行って兵をたくさん死なしてしまった」ととっても落ち込みました。

■関ケ原の戦いの後の島津家

結果的に負け戦となったこの戦いですが、なんと!島津家は家康からのお咎めなし!!

義弘は家康の家臣に「許してほしいでごわす!」と抜かりなく交渉します。

兄の義久は「弟の義弘が勝手にやったことだし、そもそもたいして戦ってもないし」と強気に交渉。

「領地だってぜったいあげないよ!戦えるものならかかってこんかい!」くらいの勢いでした。

これだけ強気で交渉できたのは、義弘の交渉が上手くいっていたのと、島津家は、関ケ原の戦いに1500人の兵しか出してないので、軍事力もしっかりと温存してありました。

家康としても「島津家おっかないし、めんどくさーい」となり、

「島津家はもうほっといて好きなようにしとけ」となり、島津家は守られました。

■島津家は強し!

こうして、家康に領地を没収されることもなく島津家を守ることに成功した兄弟!

その後義弘は、地元の鹿児島に戻り晩年をゆっくりと過ごしていました。

その時には、若者たちに、自分の経験や、兵法、戦術等を積極的に伝えていきました。

そして義弘は、超――――惜しまれつつ、この時代ではとても長生きの85歳でなくなりました。

 

島津義弘が得意とした戦法

■釣り野伏

この戦法で少ない兵でも大軍に勝利することに何回も成功しています。

超簡単に書くとこんな感じ↓

囮になって伏兵がいるところに敵をひきつけてからの、四方から一斉攻撃!!

囮の部隊もひっくり返って挟み撃ちしてフルボッコです!

これは、10分の1の兵の数でも勝利に導いた戦法です!

※この絵だと4つに分かれていますが、3つでしたー

■捨てがまり

これが伝説となっている「島津の退き口(ノキグチ)」に使用した戦法です!

トカゲの尻尾を切って捨てていくという非情な戦法でもあるのです。。。

捨てた尻尾が全滅するまで戦って、その後また尻尾を切るという、頭を守りために尻尾を犠牲にする戦法。

これは、尻尾の部隊に、頭側にいる義弘を命がけで守るんだ!という気持ちがなければできない戦法です。

義弘だからできる戦法なのです。

この戦法で、関ケ原の戦場を退陣していきます。

義弘の逃げ道にいる部隊は井伊直政(井伊の赤備えは最恐と言われていた)や、本田忠勝(57戦して一度も怪我を負ったことがないという猛将)です。

この中を正面から突破したんです。そりゃ伝説と言われるよね。。。

もう壮絶な戦いだったことは明らかです!!

犠牲者もたくさん出ました。

義弘が子供のように育てた甥っ子豊久もこの「捨てがまり」の盾となり討ち死。

実は、義弘がいつになく弱気になり、「もう自害するしかないか。。。」となった時に必死で止めて、生きて帰ろうと決心させたのがこの豊久でした。

犠牲を出しながらも、なんとか突破していくのですが、最後まで追っかけてきたのが赤備え井伊直政なんです。こわっ!!

しかし、義弘隊は、直政隊にに鉄砲を撃ちこみ、直政を落馬させることに成功し、家康の撤退の指示が出て何とか逃げ延びることができました。

(この鉄砲が原因で井伊直政は後に死んでしまいます。)

この「島津の退き口」は家康もびっくり。

「島津こえーーー」というのが家康の頭にインプットされることになりました。

 

島津四兄弟はみんな優秀で超仲良し

■四兄弟のこと 全員かっこいい!

長男 義久

歴史好きな人はこの長男の義久こそ素晴らしい!と言います。

当主として、この戦乱の時代に島津家を守り抜くことができたのはこの義久だからできた事!

一言で言うと「強気な策略家」です。

戦に参加するというよりは、内政と策略を考えるという島津家の頭脳でした。

そしてこの個性豊かな兄弟を見事にまとめ上げました。

上記でも書きましたが、関ケ原の戦いでは家康に一歩も引かない交渉で、領地を守りました。

逃げ帰ってきた弟義弘には、「だから言ったじゃん!行くなって!」と叱りつけました。

義久が、兵を出さないで国力温存していたため、島津家は守れたわけで。。。

このお兄ちゃんの頭脳がなければ、島津家の勢力を保ち続けるのは難しかったのではないかな。

やはり長男お兄ちゃんはすごいです!

義久も長生きで78歳まで生きました。

 

次男 義弘

泣く子も黙る「鬼島津」と呼ばれる猛将です。

しかし、強いだけではなく、優しい人格で、妻子、家族、部下思い。

交渉術や、戦術眼も持ち合わせています。

強くて、優しくて、賢くて。。。もう完璧じゃん!という感じです。

義弘は、戦が終われば「敵、味方など関係ないでごわす!」というタイプで、戦で命を落とした敵の供養をしてあげたりもしました。

誰に対しても、分け隔てなく接する義弘は、周りの人にとても慕われていました。

義弘の死去時には、殉死禁止令が出ていたにも関わらず、13人もの家臣が殉死しました。

家臣から本当に愛されていたことが分かるエピソードです。

 

三男 歳久

歳久も兄たち同様に優秀な武士でした。

しかし、病に侵されます。中風という病気で、症状は今でいうと脳梗塞の後遺症のような状態。

手足の痺れや麻痺を引き起こしました。

そのために秀吉の「朝鮮出兵に行って」という命令を断っています。秀吉イライラ!

加えて秀吉に対する反乱が起こった時に歳久の家来も多数参加してしまっていました。

これで、秀吉はイライラMAX!!

これでもか!という命令をします。

「島津家の長男義久くん。三男歳久を殺して」

そして兄に殺されることになった歳久は手紙を残して自害します。

「病気だったから朝鮮出兵断ったんです。

そして謀反を起こそうなんて思っていませんが、自分がいることで、島津家の謀反を疑われるならば僕は死ぬ」というような内容の手紙でした。

兄と島津家を守るため自害。享年56。

この時に殉死した家臣は、27人。義久の家来たちも、武器を捨てて大泣きしました。

この兄弟は、本当に愛される人柄だったんですね。

そして、ちょっと不思議なのですが、歳久は後世に「安産の神様」になりました。

手が麻痺して動かなくなっていた歳久は、上手く腹を切れなくて苦しみました。

その時に「お産はこのくらい苦しいのか」と言ったことで、安産の神様になったとか。

 

四男 家久

腹違いの兄弟でした。家久はそのことで負い目を感じていました。

しかし、長男義久は、「そんなことは気にするな!一生懸命武芸と学問に励めば、父母よりも立派な人間になれるのだ」

そう言われた家久は一生懸命努力して、立派な武士へと成長していきました。

そして初陣では敵将の首を取ったり、お兄ちゃん直伝の「釣り野伏」を発動させて、どんどん武功をあげていくようになりました。

しかし、41歳で急死してしまいます。病死だと伝わっています。若くして亡くなってしましました。

しかし、家久イムズは息子にしっかりと受け継がれました。

関ケ原の戦いで、「捨てがまり」となって義弘を守って最後まで戦い抜いて壮絶に散っていった豊久は、家久の息子です。

豊久は父である家久に立派な武士になるようにと厳しく育てられていました。その教えを受け継ぎ、家久の子供らしい最期となりました。

 

という全員優秀な家族思いの島津兄弟です。

ちなみに、島津家でちょっと珍しく変な人もいました。(笑)

その人物も家久という名前でややこしいので、区別するために、その変な人物を「悪い家久」と呼ばれています。

決して、この立派な四男の家久ではないのでご注意を★

 

■ぶれない兄弟愛

親子や兄弟同士でも裏切りや、殺し合いが頻繁に起こったこの時代に、島津兄弟の結束はとっても固くて争うことはありませんでした。(少しはあったけど)

豊臣秀吉は、島津家の勢力にビビッていました。

そこで、内輪もめを起こさせて勢力を弱体させようとたくらみました。

弟の義弘ばかりをかわいがることで、兄弟の中に確執を生ませようとしました。

しかし、義弘は、兄の義久をずっと尊敬し、当主としてたて続けました。

もしかしたら、秀吉の作戦を見抜いて「その手にはのらないよー」ということだったのかもしれません。

島津家は家の中の争いごとがなかったので、軍事力、財力、政治力が衰えることなく、いつでもしっかりと戦える準備ができていました。

そういうことも含めて、秀吉でさえも、「島津家怖い・・・」となかなか攻撃できなかった。

ちなみに。

内輪もめと言えば源氏。源頼朝と義経は最初は仲良しだったのに、兄弟喧嘩が大きくなっていき、弟義経は自害。。。

このような結末になる原因を作ったのは、後白河上皇の策略でした。

源氏の力を弱めたかった後白河上皇がわざと人気急上昇中の義経を担ぎ上げていきます。

兄の頼朝としては面白くありません。

案の定、朝廷にかわいがられる義経に、頼朝は不信感を抱くようになり、二人の中にすれ違いが起こり始めていきます。「きっかけ」があると意外と内部崩壊ってしやすいんですよね。この時代は特に。。。

そしてなんとも悲しい結末に向かっていくことになったのでした。

秀吉は、兄義久と弟義弘にも後白河上皇と同じような事をして、兄弟喧嘩をおこさせようとしましたが、

島津兄弟には通用しませんでした

ちなみに、豊臣家も内輪もめして関白の地位を譲ったとてもかわいがっていた甥っ子を自害に追い込んでいます。

秀吉が、この甥っ子を上手に扱えていれば、徳川家康に牛耳られることなく、豊臣家が続いたかもしれません。

秀吉の死後の跡取りがいない隙間に家康が入り込んでいったので、甥っ子がその隙間をちゃんと埋めることができていたならば、関ケ原の戦いは起きないで、豊臣家の勢力はそのまま変わらないで、秀吉の願いどおりに自分の息子に家督を継がせることができたのかもしれないのに。

(歴史に「たられば」はないというけど)

島津家はそういう失敗をしません。

日本史上では、弟の義弘にスポットが当たることが多いですが、この兄弟をまとめ上げて、当主として、秀吉からも家康からも家を守った義久も本当に素晴らしいですよね!

 

悲しい源氏の兄弟喧嘩のお話はこちら↓

源義経のかっこよくて切ない生涯やエピソードをさくっと解説☆歴女増殖中♪

おわりに

島津義弘伝説がたくさんあります。

書きたいことが多すぎて、長くなってしまった。。。

書ききれない分の感動するエピソードを別記事にしました。

是非読んでみてください!

きっとよよちち同様に大好きになっちゃうと思います🐨↓

 


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yurizo