こんにちは★
時間があるときは歴史に浸るようになったよよちち🐨です🌟
嫌いだった日本史が大好きになったきっかけは、戦国時代が面白くて。。。
そんな中で、色々な事件や、重要人物のことを調べたりしていると、ちょこちょこ名前が出てきて、気になる存在の島左近についてお話したいな、と思います。
ということで、今回は、石田三成が惚れた男「島左近」について のお話★
目 次
島左近の生涯をサクッと
※書状などでは嶋の記載もありますが、ここでは「島」で統一しています。
※呼び名は「勝猛(かつたけ)」と所説ありますが、「左近」で統一しています。
■生まれ
父の名前は島政勝。
島氏は現在の奈良県生駒郡平群町周辺の大名だったそうです。
名のある家のお子さんだったということですね。
※誕生地は諸説ありますが近年大和国(やまとのくに)とされています
しかし、幼年から最初の就職当たりの頃までの頃はあまり資料が残っていなくて、不明のようです。
■社会人デビュー
左近31歳。
「教興寺の戦い」でその時の主君畠山高政が三好長慶に負けてしまいました。
この時に畠山氏の部下筒井順政(つついじゅんけい)のチームで戦に参加していた縁で、筒井家に就職しました。
■左近と呼ばれて
ボスの筒井順慶は松永久秀と、当時大和国で縄張り争いを続けていました。
そんな中、筒井氏の2人の重臣として活躍したのが松倉重信(右近)と嶋清興(左近)でした。
周囲からは筒井の両翼、右近左近と言われていたことから、島左近と呼ばれるようになりました。
■転職
左近48歳。
筒井氏が死んだことで退職して、しばらくフリーランスとなりました。
※左近の研究家によると、豊臣政権の命令で筒井氏の整理が行われたことで、左近は筒井氏を退職した可能性があるとも言われています。
■石田三成からの熱心なスカウト
左近がフリーランスの時に、たくさんのスカウトを受けたけどすべて断っていました。
その中にはなんと、石田三成のラブコールも!!
三成は必死に説得して、その熱意に負けて左近は三成の家臣になることを決めたのでした。
■急に推定年収54億円
三成の元に就職した左近は、2万石ももらいました。
この2万石という数字は約54億円。。。
当時の石田三成役員の推定年収約100億の約半分をもらったという、破格の待遇!!(゚Д゚;)!!すげーーー!!
(※お給料の計算方法は交易財団法人日本城郭協会公認のHPによるものです※諸説あります)
よく吊り上げたな~左近、交渉上手!!
これも才能ですよね。
三成が惚れる男だから頭が良いのでしょうね🌟
左近が就職した噂が広まり、「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」という、うたが読まれるくらい有名になったそうです。
三成のことを皮肉っていますね(笑)
石田三成って本当に嫌われ者だなー💦
■朝鮮出兵
三成軍で軍を動かすための中心的役割として、予算、兵の数の調整など、政治的なことに関わっていたそうです。
右腕になって三成を支えていきました。
■家康暗殺計画
左近58歳。
豊臣秀吉が死んでから、徳川家康が権力を振りかざしまくりました。
今後、危険な存在になると察した左近は、三成に「家康暗殺計画」を持ちかけました。
しかし、大義名分にこだわる三成が却下して計画は白紙になりました。
このことで、左近は、三成のことを
「度胸がないんだけど・・・」と思うようになりました。
はっきり物事を決められない三成にちょっといらだったこともあったそうです。
■関ケ原の戦い前哨戦「杭世川(くいせがわ)の戦い」に勝利
左近60歳。(だいぶお爺ちゃんです)
東軍総大将の徳川家康が岐阜に軍隊を配置すると、西軍の兵隊は動揺したり、逃亡などまとまりがなくなりました。
けっこうぐだぐだなのよね。。。
そこで三成は、左近に「西軍の士気を上げろ」と命令します。
左近は夜に不意打ちをしようと提案しますが、またまた三成に却下されます。
ここでも三成はビビりな感じを出して、左近はイラっ!
でも左近は、森林生い茂る地形を利用して不意打ちしたり、負けたふりして油断させたりして、三成の命令通り士気を上げることに成功して、勝利に導きました。
■関ケ原の戦いで死亡??
その翌日、関ヶ原の戦いが起きます!
左近はリーダーシップを取って頑張りましたが、敵の黒田鉄砲隊に銃撃され逃げます。
その後、西軍の武将小早川秀秋(豊臣秀吉の正室の甥)が裏切って東軍になったり、作戦が上手に働かなかったりしてあっという間に崩れていってしまいました。
左近が強くて恐れられていたとわかるエピソードがあります。
ある武士は、
「恥ずかしいんだけど、島左近の大きな声は耳に残っているけど、軍服は全く覚えてない。見るどころか、顔を上げるのも怖かった。でも笑わないで、それほど左近は恐ろしい男だった」と言ったらしい。。。
島左近の「かかれー!!かかれーー!!」の声が耳から離れなくて夜眠れなくなる人が続出したらしい。。。
一応、関ヶ原の戦いで討ち死というのが定説かな。
でもたくさん生存説があるのです。
少し紹介しておきます。
- 生存説1
京都の教法院(きょうぼういん)には、過去帳や墓碑があって、左近は1632年6月26日に死亡と記載。
92歳だぞ!!ちょっと計算が合わないな。。。
そもそも出生年月日が間違うのか?
- 生存説2
関ケ原町史の記録は、関ケ原の戦いの翌日に、「琵琶湖の竹生島に左近が泊まった」と書かれている。
- 生存説3
細川家の縄張り鎌倉の光明寺で出家し泰岩という僧侶になっていたとか。
おわりに
島左近は石田三成が大金を出してスカウトするほどの逸材だった。
自分の実力をよく知っている左近は、スカウトを断り、報酬を吊り上げる事で自分の価値を上げる作戦だったのかもしれないですね。
戦に負けても自害などせず、結果を出して信頼を勝ち取り、逃げて生き長らえる事を選ぶあたり、頭が良かったのでしょうね🌟
生存説がいっぱいあるし、ちゃっかり生き残ってそうな感じがします🐨
⚔ほかにも面白い武将いっぱいいるのでゆるゆると読んでくれたら嬉しいです↓✨