こんにちは★
甲斐の国出身のよよちち🐨です★
甲斐の国を一生懸命守ってくれた武田信玄が大好きです!!
今回は、その息子の武田勝頼のことをまとめてみた★
ということで、今回は、武田家最後の武将 武田勝頼の厳しい人生 のお話★
目 次
武田勝頼は、武田信玄の四男として生まれました。
母親は、信玄によって滅ぼされた諏訪家の娘です。
※名前が不明なため、ここでは「ゆう姫」と呼びます※
(この信玄とゆう姫の結婚は、信玄のひとめぼれとも、子供を諏訪の当主にするためとも言われています)
この結婚も反対する人もたくさんいました。
敵方の娘など、恨みを持っているに違いない、寝首をかかれるかもしれない、という家臣達もいました。
この時、武田家軍師の山本勘助は、この結婚に賛成したそうです。
ゆう姫を側室に迎えて1年後に勝頼が誕生。
勝頼は、四男なので、この時点では武田家の家督を継ぐ予定はありませんでした。
信玄と一緒に、長野氏がいる上野箕輪城攻め。
勝頼は、長野家の重臣である藤井豊後の首を討ち取っています。
その後も、信玄の生前は、ほとんどの戦に一緒に行って武功をあげています。
小田原城攻めの時の撤退線では超重要なポジションである「殿(しんがり)」をしっかりと務めました。
勝頼は、信玄に「戦上手」と言われるように成長していきました。
三方ヶ原の戦いに勝利します。
織田・徳川連合軍VS武田家の合戦。勝頼も参加して活躍しました。
この時の武田軍は最強で最恐!!
徳川家康は、武田軍が怖すぎて、馬上でおもらししちゃったとか。。。??
そんな武田家絶好調な時に信玄が死んでしまいます。
信玄は自分の死を隠して、世間には、信玄は勝頼に家督を譲り、隠居したということにしました。
長男「義信」→謀反を企んだので、幽閉された。
次男「信親」→盲目のため仏門へ入りました。
三男「信之」→幼くして亡くなってしまいました。
そのため、信玄は四男の「勝頼」を跡継ぎとするしかなかった。
ちなみに、
五男「盛信」→最後の最期まで、勝頼を支えた。最後は自害。
六男「信貞」→武田家滅亡時に自害。
七男「信清」→江戸時代まで生存。上杉家に身を寄せて、80才まで生きた。
信玄は、勝頼の子供「信勝」に、武田家を継がせるつもりで、勝頼は、信勝が大人になるまでの「つなぎ」と考えていた、とも言われています。
勝頼は、諏訪の高遠城の城主となり、母親の出身地である諏訪の人間として生きていくつもりだったのに、信玄の急死によって急に跡継ぎという大役を任されることになった、ということですね。
武田家代々の名前には、必ず「信」の字が入っています。
信玄の7人の子供の中でも「信」が入っていないのは、勝頼ただ一人だけ。
(ちなみに勝頼の子供には「信」が入っています。「信勝」です。)
「勝頼」の名前の由来は勝頼の母親の父親である諏訪頼重の「頼」と、信玄の幼名であった「勝千代」の「勝」だと言われています。
このことが、信玄時代からずっと仕えていた家臣たちに認められてもらえなかったのかもしれません。
(「信」が入ってないってことは、信玄が跡取りとして考えていなかった証拠じゃん、みたいな)
自分は武田家の通名「信」を入れてもらえずに、急に信玄時代からの重臣たちを家来において政治を行っていかないとならないわけで・・・
勝頼、めちゃくちゃ大変な思いをしていただろうなー。
勝頼はなんと、信玄も落とせなかった(落とさなかったのかも??)の城を落とすことに成功します!!
徳川家が所持する「高天神城」です。
この勝頼の戦いで、家臣たちの関係も良好になりつつありました。
信玄の時代よりも領地が増えましたし、勝頼大活躍!!
武田家の跡取りとして軌道にのってきたのかな・・??
でも。。。この大成功が、勝頼が傲慢な性格になっていくきっかけになってしまったのかな🐨
信玄が生前の越した言葉を読むと、勝頼はちょっと良くない方向へ行ってるのが分かります。
この時代を生きた大先輩の信玄イズムを勝頼は伝承されていなかったんですね。。。
🐨超かっこいい信玄公のお言葉など↓✨
【武田信玄】戦国武将の考え方に惚れる!名言とエピソード★歴女になる!
とっても有名な戦いですね。
この「長篠の戦い」で武田家が滅亡したと、思っている方も多いかと思います。
この後、武田家はいろいろと頑張るのですが、この戦いが滅亡への大きなきっかけとなったことは間違いないかと思います。
順調に勝ち進んで、領地も増やしてきた勝頼ですが、さすがに徳川&織田の連合軍にはかなわないでしょう。
だって徳川・織田連合軍38000VS武田12000という兵力差です。
武田家の百戦錬磨のベテラン勢は
「ここは、1回退陣しましょう。大きな損害がでちゃいますよ!」と勝頼にアドバイス。
しかし勝頼は
「戦うの!!戦え!!」と聞き入れませんでした。。。
総大将がそう決めたのならば従うしかない。。。
ので、そうなったら戦いますが、家臣たちが進言したとおり、どんどん体制を崩されて、劣勢になっていく武田軍。。。
なかなか退陣の命令を出さない勝頼に、重臣である馬場信春が使者を送ります。
「自分が殿(しんがり)を務めるから、退陣して!」
やっと勝頼は退陣命令を出し、撤退線となります。
この戦で信玄の頃から仕えていた有能な家臣たちをたくさんたくさーーーん失うことになってしまうのです!!
もう武田家存続の危機です。。。
🐨殿をしっかり務めた「馬場信春」もこの戦いで討死↓この人の最期はすごい感動するよ!!
武田家一筋!馬場信春の男気あるエピソードとかっこよすぎる最期が泣ける。。。
🐨みんな恐れた武田家最恐の家臣山県昌景↓面白い武将です★
戦上手の最強武将??赤備え継承者「赤い悪魔山県昌景」をさくっと紹介★歴女★
信玄時代からの重臣たちと、あまり良い関係ではなかったのと、どうしても勝たなくては!という焦り、自分は戦上手だから負けるわけがない!という過信があったんじゃないかな🐨
家康や、信長は、武田家の重臣である馬場信春や、山県昌景を恐れていました。
そういった家臣がいなくなってしまった武田家は、徳川家にも織田家にもじゃんじゃん攻められて、領地内のお城がどんどん落ちていく。。。
大きな戦ではなく、小競り合いの中で、どんどん武田家の勢力が奪われていきます。
武田家が弱ってきていることに焦った勝頼は、外交に目を向けました。
そんな時に、上杉謙信が跡取りを決めないまま、急死してしまったので、上杉家の跡取りの内輪もめが勃発します。
謙信には、子供がいなかったので、養子の2人の間で戦が起こります。(御館の乱)
景勝(謙信の甥っ子)VS景虎(北条氏政の弟)
この内輪もめの戦いに、なぜ勝頼が関わっているのかというと、景勝からのHELP要請があったから。
勝頼は二人の間を取り持って、とりあえず和睦させることに成功します。
しかし、景勝VS景虎の戦いは続いて、最終的に景勝が勝つことになりました。
勝頼は、直接的に景勝の味方をしたわけではないのですが、景虎のバックの北条家が大激怒!!
武田家は、北条家と同盟を組んでいたのに裏切った形となってしまったのですね。
北条家は、勝頼にご立腹!!同盟は破綻してしまいました。
これで、北条家も敵にまわすという最悪な結果に。。。
🐨あちゃー💦外交大失敗ね。。。
この事件も、さらに、武田家滅亡に近づけることとなりました。。。
勝頼は、甲府から離れて、韮崎に「新府城」を築城しました。
信玄が住んでいた、甲府の躑躅ヶ崎館はお城ではないので、防御力が低いです。
敵が多くなって攻められる恐れを感じ取ったのか防御力が高いお城が必要になりました。
(信玄時代は、攻め込まれることがなかったので、防御力が少ない館でも大丈夫だったのです。信玄のすごさが分かります)
しかし、このお城の築城が自分の首を絞めていくことになっていきます。
武田家は、もうかつてのような、強力な結束力もないし、お金もない。
そんな中で「お城を作れ!」と言われても。。。
家来たち、領民たちは、どんどん勝頼から離れていくことになり、反発する領民も出てきました。
お父さんの信玄は「人は石垣、人は城」と言って、人の結束が、城よりも大事なんだ、という考えを持っていて、とても領民を大事にする人物でした。
信玄との考え方の違いに、どんどん家臣たちの心も離れていってしまいました。。。
🐨なんか、勝頼。。。
やること全部空回り。。。裏目に出ちゃってるよ。。。
このころになると、身内の中でも裏切り者が出てきます。
武田家は、もうボロボロ、バラバラな状態になりました。
周りの勝頼への忠誠心も信頼もだいーーーぶ薄れて行きました。。。。
そんな状態の中、
織田軍が飛騨と信濃方面から、
徳川軍が駿河方面から、
北条軍が関東方面から攻め込んできます!!
🐨!!ひええええーーー恐ろしいっ!!
かつてのように、一丸となって戦っていた強い武田軍はもうなくて。。。
追い打ちをかけるように、3軍の侵攻が始まったタイミングで、浅間山が噴火しました。
現代と違って、当時は、自然現象を神様に例えたりするようなことがあったので、この噴火は「武田家は天に見放されたのだ」という雰囲気が漂い始める。。。
あちこちのお城が、戦わずして降伏していきます。
裏切り、寝返りが続いて、武田家は大混乱。。。
しかし、最後の最期まで、勝頼の味方であり続けて戦い抜いた武将がいます。
それが、勝頼の弟、五男の信盛です。
信盛は少なくなってしまった兵で奮闘しますが、敵の兵力はすさまじく、ついに信盛のお城「高遠城」も落ちてしまった。。。
もうダメだ。。と思った勝頼は建てたばかりのお城「新府城」に自ら火を放ち逃走します。
これが悲しい悲しい逃走劇となるのでした。。。
勝頼に「自分のお城に来てください!お守りします!」と勝頼をかくまって生かそうと名乗り出た家が二つ。
真田家と、小山田家です。
勝頼は、小山田家を選び、小山田信茂のお城「岩殿城」へ向かいました。
しかし、信茂は織田家に寝返り、勝頼を自分の領地に入れませんでした。
行く場所がなくなり、敵の追っ手も迫ってきているので、勝頼は死を覚悟します。
勝頼一行は、武田家にゆかりのある「天目山」へ向かいます。
(自分の死に場所を天目山と決めたんだね🐨)
最初は5~600人ほどのお供がいたのですが、1人2人と離れていき、最後には4~50人ほどになってしまっていました。
(その中の20人ほどが、奥さん(北条夫人)の付き人達(女性)だったので、もはや、戦える状態ではなかった)
天目山へ向かう最中に敵(織田家の滝川軍)に追いつかれ、勝頼に最後までついてきた少ない家臣が必死で応戦。
侵入を防ごうと家臣たちが戦ってくれている間に、勝頼、奥さんと息子の信勝が自害。。。
勝頼37才。
戦国時代最強と言われた武田家は滅亡しました。。。
勝頼はダメ武将と言われることが多いです。
勝頼本人の人間力の足りなさ等もあったかもしれませんが、仕方がない部分もあるのかな、と。
普通は、家督を継ぐ人は、子供の頃から、英才教育を受けて育って、家督を継いでからも父親がまだそばにいてアドバイスをくれたり、相談に乗ってくれたり、意見を聞いたりして勉強しながら立派な殿様になっていくんだけど。。。
勝頼の場合は、四男で、諏訪の当主になる予定で、武田家の家督を継ぐ予定ではなかったから、そこまでの教育を受けていなかったし、信玄時代からの家臣達とも一緒にいる時間も少ないし、あんまり仲良くなれなかったし、お父さん死んじゃっていないし。。。
と、勝頼は、頼れる人もいなくて大変だったと思われます。
ちょっとかわいそうな部分もあるよね。
父親が偉大過ぎてプレッシャーも、ものすごくあっただろうし。。。
常に身近な人に比べられる毎日。。。
でも、ベテラン勢の意見を素直に聞いていれば、こんなことにはならなかったかもしれないです。
おごってしまってはいけません★
信玄のように、ちゃんと部下の意見を聞き入れることができていれば。。。
以前のような「ONE TEAM」な武田家を築くことができていたら。。。。(たられば・・・)
歴史に「たられば」はないというけどね。。。
ちょっと悔やまれますね。。。🐨
織田信長は、こんな言葉を残しています。
「武田勝頼は、武勇に優れた武将である」
「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」
武勇に優れていたけれど、運がなかったのだろうというような意味です。
よよちち🐨も全くその通りだと思いました。
とっても切ない悲運の武将のお話でした。
🐨勝頼ゆかりの地へ行ってきました↓武田家終焉の地。勝頼父子が自害した場所がそのまま残っています。
実際に行くと、「勝頼公、本当にお疲れ様でした。安らかに眠ってください」って思いました。
ちょっと生々しくて怖いところもあったけど、実際に見てホント感動した!!泣けちゃいました!!
是非読んでみてください🐨↓
🐨武田家にゆかりのある戦国武将たち↓かっこいいよーーー💛
武田家一筋!馬場信春の男気あるエピソードとかっこよすぎる最期が泣ける。。。
謎に包まれた山本勘助の生涯★武田信玄に救われた遅咲きの武将の人生がすごい!