こんにちは★
歴女になりつつあるよよちち🐨です🌟
今回は、ちょっとドジな武将を紹介します🎵
でも!鉄砲の腕をかわれて織田信長の重臣にまで上り詰めた武将。
そこまでは良かったのですが、本能寺の変の後はなかなかうまくいかない人生。。。
おもしろいエピソードと一緒に簡単にわかりやすく滝川一益の生涯をサクッとお話します🌟
目 次
甲賀で誕生そして追放
■一益誕生
1525年 滋賀県甲賀市で誕生。
父は滝川資清(一勝という説もある)。母の名は不明。兄は高安範勝。
滝川家の祖先は奥三河の設楽周辺に住み、三河氏に仕えていましたが、後に甲賀衆を頼って甲賀に引っ越しています。
この地で滝川家は、甲賀4党(伴・滝・上野・大原)に数えられる程、名を上げました。
そして一益が誕生します。
甲賀には忍者が多く住んでいたことから、一族も鉄砲などの火器、火薬の扱いに長けていました。
その影響を受けて一益も幼少から鉄砲に触れて勉強していたそうです。
■甲賀を追放される
青年期になるとギャンブルに明け暮れ、問題ばかり起こしていました。。。あちゃー🐨💦
ある日、河内にて高安の一族を殺してしまい、甲賀を追放され放浪生活を送ることに。。。
やがて、尾張の知人のもとへ身を寄せることになりました。
■信長の家臣になる
1555年 30歳。
知人の紹介で、ある鉄砲のお披露目会に参加したところ、家督を継いだばかりの織田信長に出会い、信長に鉄砲の腕前を披露することになりました。
その腕前を大変評価され、家臣として使えることになったのです。就職できてよかったね🌟
ここから始まる一益の武勇伝
・蟹江城奪取
1559年 34歳。
勢力拡大を目論む信長に、一益は「まずは三重県を抑えてから岐阜へ侵攻しましょう」と助言をしたところ、蟹江城城主「服部友貞」の調略を命じられます。
「資金を出させ蟹江城を作らせる」という調略に成功。驚くことに、城が竣工すると一益は、城から友貞を追放し、自らが蟹江城の城主となったのです。
一益、城持ちになる!!🐨
・桶狭間の戦い
1560年 35歳。今川軍を撃破した「桶狭間の戦い」で、重要な先鋒隊として活躍し、後に左近衛将監に昇進しました!やったね!!
・三重県北部侵攻の総大将
1567年 42歳。
神戸氏、長野氏、木俣氏、茂福氏などを次々降伏させ信長の配下にします。
一益すごい!!🐨
・三重県南部侵攻
1569年 44歳。
南部を支配する北畠氏の有力家臣・木造雄利を、戦いを諦めて開城するよう説得。信長に面会させ、無血開城に成功します。
しかし信長軍としては、知将・鳥屋尾石見守満栄の作戦に苦戦し、最後は信長の次男を養子にすることで和睦。
🐨すごい働きをしていますね!
・誕生地甲賀攻め
信長の非情な命令は、なんと!一益が誕生した甲賀攻め。。。。
一益は甲賀一族を少しでも残したいと和睦交渉をしますが、六角氏の残党や甲賀武士団はなかなか応じてくれないのです。
壊滅寸前でようやく和睦に応じ、甲賀攻めに成功します。
🐨胸が痛んだでしょうね。でもここまで取り立ててくれた信長の命令に背くことはできなかったんだろうな。。。
・長篠の合戦。鉄砲隊指揮官
1575年 49歳。
愛知県の長篠に侵攻してきた武田軍を、鉄砲隊の大軍で撃退。
・天王寺合戦に従軍
1577年 51歳。
石山本願寺顕如軍との戦いで従軍し、その後の雑賀衆攻めにも従軍。
・第2次木津川区口の戦い
1578年 52歳。
石山本願寺は毛利水軍を頼り兵糧を入れており、これを阻止し、海権奪取するために、九鬼嘉隆と一益に作戦を考案させます。
嘉隆とともに、日本初の鉄甲船7隻で毛利水軍を撃破。
兵糧を断たれた本願寺の大将・顕如(けんにょ)を調略し、和睦に成功します。
この成果を讃えられ、信長から茶会に招待されます。
安土城にて信長に出迎えられ、手厚くもてなされたそうです。
・2回目の伊賀攻めに従軍
1581年 55歳。
北畠の養子になった信長の次男・信雄が勝手に、手柄欲しさに伊賀攻めを行うが大敗し信長に激高されます。
信長を大将に2回目の伊賀攻めを行い、一益も従軍。
甲賀忍者も駆り出され、最初で最後の甲賀忍者と伊賀忍者の対決となりました。
一益も活躍し、「山桜の壺」を貰い受ける。
🐨一益、どんどん手柄をあげていきますね!!
・武田討伐戦で指揮官に任命
1582年 56歳。
武田軍と友好関係を装っていた木曽義昌は、信長へ密かに武田軍の情報を流していました。
信長は弱体化した武田軍へ追い打ちをかけるために、武田軍家臣、下条九兵衛、熊谷玄蕃の調略に成功。
これを聞いた武田家臣・下条信氏は逃亡。
武田軍を切り崩したタイミングで出陣。
総大将は織田信忠。一益は指揮官として多方向から攻めました。
逃亡する大将武田勝頼軍を挟み撃ちにし、天目山にて勝頼を自害に追い込み、武田軍滅亡に成功しました。
🐨滝川一益というと、武田家を滅亡に追い込んだ人物っていうのが最初に頭に浮かぶかなー
・群馬県と長野県の領主・関東取り次ぎ役
1584年 58歳。
信長から武田討伐の活躍の褒美として何が欲しいかと聞かれ、一益は「珠光小茄子」という高級茶器が欲しいと答えましたが、信長に無視されます。(笑)!!
茶器コレクターの信長としては、「珠光小茄子」だけは譲れなかったのでしょうかね。
その代わりに、武田の領地「群馬県・長野県」を与えられ領主となりましたが、一益は「群馬のような遠いところへ置かれてしまい、茶湯の冥利も尽き果てたわ」と散々愚痴っていました。
仕事としては、周辺領主の、北条氏、佐竹氏、里見氏、伊達氏らを相手に織田軍へ従軍するよう交渉役を務めたそうです。
年齢的にも、合戦よりお茶を飲みながら平穏な日々を過ごしたかったのだとか。
本能寺の変で後ろ盾を失う
■一益号泣
明智光秀の謀反により「信長が本能寺にて自害」の知らせを聞き、一益は袖が濡れるほど大泣きしたそうです。
■神流河原の合戦
北条氏は信長自害の知らせを聞き、後ろ盾を失った一益を攻めます。
群馬県に5万6千の大軍を率いて進軍。
防衛戦一方の一益は周辺武将へ救援を依頼しますが、受け入れられず、伊勢に向けて撤退。
途中、かつての領地だった長野を通る際、真田信之の支援を受けます。
しかし、同盟していたはずの木曽氏に通行を拒否され、人質交換条件でようやく通行許可を得ました。
🐨ここから、一益の人生が一変していくのです。。。
清須会議に遅刻し降格!
撤退の途中、清須会議の知らせを聞きますが、敵の追撃や落ち武者狩り、木曽氏の足止めのせいで清州会議に間に合わず、大遅刻!!
大事なポイントでミスっちゃったのね。。。。🐨💦
これで、降格してしまうし、ドジな武将としてレッテルをはられてしまうし。。。
映画の「清州会議」でも面白可笑しく描かれています。
この清須会議で、豊臣秀吉は、天下統一へ近づくわけです!
それを良く思わない柴田勝家と織田信孝から反秀吉同盟に誘われ、秀吉と戦うことになりますが。。。
柴田軍は大敗し、勝家は自害。。。信孝も自害。
一益は秀吉に降伏し、剃髪して京都妙心寺に隠居。
その後丹羽長秀を頼って越前で素浪人として過ごします。
ちょっと下り坂な感じですね。。。🐨
豊臣秀吉に仕える
■小牧・長久手の合戦で武将に返り咲き
1584年 60歳。反秀吉派の徳川家康・織田信雄連合軍と秀吉軍が激突。
秀吉は一益へ、北伊勢5群の領地を条件に武将として呼び戻されます。
蒲生氏郷・堀秀政らと共に伊勢方面へ出陣し、得意の調略謀略を用いて、蟹江城など複数の城攻めに成功します。
しかし家康・信雄連合軍に追い込まれ秀吉は降伏することを決意。
それは、織田信雄と和睦を結び、家康を孤立させるためでした。
とりあえず、一益は結果を残したことは確かです。
■再び関東大名の連絡役をしながら。。。
1584年 60歳。
関大名と秀吉の連絡役に就任して、秀吉と茶会をゆっくりと楽しんでいたようです。
🐨いい余生を過ごせたのではないのかなって思います。
そして、1586年 62歳。死亡。
おわりに
滝川一益は、人を殺して故郷を追放され、浪人をしていましたが、鉄砲の優れた技術が人生を変えます。
織田信長の重臣となり信長四天王にまで上り詰めました。
鉄砲名人としてだけではなく、調略、謀略、外交能力などマルチな能力に長けている優秀な武将。
関東を統括する軍団長に任命され大出世しますが、織田信長が「本能寺の変」で死去したあと運命が反転。
北条氏により領地を追われ、さらに豊臣秀吉との戦いに敗れ、素浪人に落ちぶれてしまうのです。
後ろ盾と立場があったからこその人徳で、織田信長というカリスマ武将が一益を輝かせたのかもしれませんね。
🐨個人的には、よよちち🐨が大好きな武田家を追い詰めたので、あんまり良い印象を持っていないです(笑)
武田家を追い詰めた場所へ以前行ってきました↓感動したエピソードも。。。泣けるのよ。。。
他にも個性的な武将がたくさんいます↓いろいろ読んでみてください✨