こんにちは★
よよちち🐨でございます☆
「戦国時代」というきれいごとだけでは生きていけない時代に、
とっても美しくきれいな人生を送った人がいます。
それが、「立花宗茂」です。
正義が通らない理不尽なことがたくさん起こったゴリゴリの戦国時代に、この立花宗茂は「義」を通して苦境にさらされることもたくさんありましたが、最後は幸せに暮らすことが出来ました。
とっても素敵な人物です!
ということで、今回は、立花宗茂のかっこいい生き様 のお話★
目 次
※何回も改名を繰り返していますが、今回は宗茂で統一して書いています※
宗茂は豊後(大分県)で筑前の岩屋城(福岡県太宰府市)の高橋紹運の長男として生まれました。
けっこういいとこのおぼっちゃまです。
長男であるから、当然父の跡を継ぐはずだったけれど、おなじ家中の将・立花道雪の娘婿になることになりました。
もちろん、高橋家にとっても大事な長男ですから、その申し出を断りますが、道雪の粘り勝ちだったのでしょうか、宗茂が15歳の時に婿として立花家に入りました。
(これはとても異常な感じがしますが、高橋家と立花家のつながりを深くしたかったのかもしれません。)
それで高橋→立花となったのです。
立花道雪は、男子にはめぐまれず、7歳の娘に家督をゆずりました。
名前は「誾千代(ぎんちよと読む)」といいます。
宗茂が15歳の時にこの誾千代の婿として迎えられました。
少しだけ、この義理のお父さんとなった「立花道雪」にも少し触れたいと思います。。
この道雪がまた面白い人なんです。なんと、道雪は、「雷を切った男」なのです⚡
その時に、半身不随となりましたが生きていて、戦には輿に乗って戦場にでていたという強者です。
だから、とーーーーっても厳しい人で、宗茂も、厳しい英才教育を受けました。
ここから、新しいスタートだ、という時に、立花道雪は遠征中の筑後で病死してしまいます。
娘の誾千代はまだ幼く、もちろん女でもあるため、宗茂が代官として立花家の城主となりました。
実家の高橋家と立花家を両方治めるような立場になっていきました。
この頃の九州は、東の大友氏(←立花家が仕えてる人)、西の龍造寺氏、南の島津氏の「三国志」状態で、
その中の島津氏がイケイケな雰囲気を醸し出していました。
やがて、案の定、島津家が南からすごい勢いで九州を北上しながら侵略してきました。
この時、宗茂の実の父親高橋紹運は、島津家に攻め込まれ、自害に追い込まれました。
それでも踏ん張って戦う宗茂!降伏なんてしないぞ!
頑張って立ち向かう立花家ですが、島津家の勢いもすごくて。。。
島津家の勢いに困った大友氏は、秀吉に「島津家が手に負えないから助けてください。援軍お願いします!」とヘルプ要請をして援軍を待ちます。
秀吉からの援軍が九州に到着し、それを知った島津家は撤退します。
(さすがの島津家も秀吉の兵力には勝てないと判断しました)
ここで宗茂は、「はー良かった」と一息つくこともしないで、すぐに追撃に走り、島津方の高鳥居城などガンガン攻め落としました。
この宗茂の行動を、とっても気に入った秀吉。
秀吉の家臣として召し抱えられることになります。
秀吉は、小早川隆景の与力として、南筑後など計10万石を与えました。
(すんごい大出世です)
宗茂は、柳川城(福岡県柳川市)を本城としました。
こうして、宗茂は大友氏から独立した一大名となることができた!
宗茂は、福岡県を拠点に南筑後などを治めていきました。
秀吉には感謝でいっぱいだったでしょう。
秀吉が、「朝鮮出兵する!」と言い出します。「文禄の役」と言われるものです。
日本軍(豊臣政権)は約16万人
朝鮮・明連合軍は約25万人(諸説あり)
と両軍合わせて40万人が戦った大きな戦争でした。
宗茂も九州から、朝鮮出兵に向かいました。
朝鮮の今のソウル北部の「碧蹄館(へきていかん)の戦い」でわずかな軍勢で明の大軍を破ることで、劣勢だった日本軍を立て直すことに成功します。
宗茂は、結果的にどんどん強さをアピールすることになります。
しかし、朝鮮側と、日本側(秀吉)両方で、「自分が勝った!」と思い込みます。
これで、交渉がうまくいかずまた、朝鮮出兵が始まります。これが「慶長の役」。
両軍の兵力は
日本軍が約14万人、明軍が約9万人でした。(諸説あり)
戦いの最中、秀吉の死によって日本軍撤退の指示が届きました、
撤退を始めると、明・朝鮮連合軍は泗川(しせん)・順天・蔚山へ同時に攻めてきます。
この撤退戦の時に順天倭城で戦っていた小西行長が孤立してしまいますが、立花宗茂は島津義弘らとともに救援に向かい朝鮮水軍と戦い小西行長を救出します。
ここで、また、「島津義弘」の名前が出てきます。
九州出身の、熱い男!な義弘と宗茂二人は、孤立してしまった小西氏を救いに行きます。
残念だけど見殺しにするしかない!という判断をせざるを得ない状況の中、この二人だけは助けに行くんです。
そして、見事助け出し、日本へ戻ってきました。
朝鮮出兵は、日本軍の撤退という形で、幕を閉めます。
(朝鮮出兵は、全体的にグダグダでなんの利益も生まない戦争でした。)
秀吉の死後、朝鮮出兵から、兵も戻ってきました。
異国でボロボロになって戦ってきたのに、褒美もないし、労いもなし。
この時点で、秀吉の後の仕事をしていた石田三成に不満が募っていきます。
石田三成は、この朝鮮出兵の時に、出兵している兵に対して、指示だけ出して、ミスすると秀吉にチクる。。これが三成の仕事といえば仕事なのですが、出兵している兵達は、
「自分は戦にも出ないで、なんなのあの態度!!ムカー!」となっていたんですね。
そして帰ってきても、褒美を与えることができない。
(朝鮮が相手だから日本の領地を与えることもできないし)
石田三成のワンマンな性格も相まって不満は募っていく状態でした。
そんな時に、徳川家康が動き出すのです!
着々と力をつけていく家康に、「このままでは豊臣家は徳川家に乗っ取られる」と思った三成は、戦うことを決意します。これが「関ケ原の戦い」です。
朝鮮出兵に行っていた、戦上手な武将たち(加藤清正などの猛将達)は、石田三成にムッカーときてたので、徳川方につくことになりました。
宗茂は、徳川方から、「東軍(徳川)の味方になれ」と誘われますが、
「秀吉公への恩義がいっぱいあるの!東軍に付くくらいなら、死んだ方がマシ!」ときっぱりと断りました。
家臣たちは、「西軍の勝利はない!東軍につくべきだ」と言いましたが、
「やだ!勝敗は関係ないの!西軍につくの!恩を返す時なのだ!」と意見を変えませんでした。
関ケ原の戦いでは、立花宗茂は毛利元康らと一緒に、東軍方の京極高次が籠もる大津城を攻めます。
両軍の兵力は西軍(毛利&立花家)が1万5千、東軍(京極家)が3千と兵の数は5倍なので、すぐに勝てるだろうと考えていました。
西軍は大津城を包囲し攻撃を始めます。
しかし、思うようにいかず、大砲で攻撃を開始し、大津譲はやっとこさ降伏します。
もっと早く終わらせて、関ケ原の戦いのメイン会場に向かう予定だったのですが、長引いてしまった。。。
立花宗茂は大津城を落とすことに成功しましたが、大津城を落としたその日に関ヶ原の戦いで西軍が負けてしまったのです。
結局、この大津城攻めは全く無意味なものになってしまいました。
(関ケ原の戦いのメイン会場は、朝方から始まってお昼くらいには終わるという超早い決着でした)
この負けの知らせを受けた宗茂は、地元の九州へ帰ることにしました。
ここでもまたかっこいい素敵なドラマがあるんですよ。
帰る途中に、同じ九州の島津義弘軍に出会います。
島津義弘軍は、「島津の退き口」と呼ばれる伝説の撤退劇をくり広げ、もうボロボロの状態でした。。。
この島津家に宗茂の父親は殺されています。(島津家が九州を北上しながら侵略している時)
立花家の家臣たちは、「殿!今、父上の仇を取るチャンスです!」と言いますが、宗茂は
「勇士のする所にあらず」と言いました。(かっこいいー)
弱っている隙に討つなんて武士としてやっちゃダメ。父親のことはもう昔のこと。今は一緒に西軍として戦ったんだから助けていっしょに帰るの!
宗茂は、島津軍が警戒していると思って、使いまで出して「心配ないさー。一緒に帰ろう」と伝えたそうです。
そして、島津軍を守るようにして、九州に一緒に帰っていきました。
🐨島津義弘伝説もすごい面白いです★是非読んでみてください↓🐨
島津義弘の生き様がかっこよすぎる!島津四兄弟や得意な戦法も解説★
宗茂は戦いに負けた大名となってしまいました。
九州の大名では肥前(佐賀県)の鍋島家も西軍に味方していたが、西軍が敗れたと聞くと、にわかに寝返り、徳川家康に降伏した。
家康は、「では、償いとして隣国の立花を討て」と言います。
鍋島軍は、家康に言われた通り、立花宗茂の柳川城の攻撃の準備を始めます。
このときに登場するのが後に大親友になる加藤清正です。
清正は、宗茂に降伏するように説得しました。
宗茂は、この説得に納得して、降伏しました。
これで、立花家は、領地をすべて没収され、家臣たちは全員無職となりました。
(秀吉からもらったたくさんの領地を失ってしまったんですね。。。)
無職になってしまい困っている宗茂に、加藤清正が「私の国にきたらいいよ」と誘ってくれました。
しかも、「遠慮はいらない。家臣たちも全員お連れなさい」と。
宗茂は、清正に超――感謝しました。
敵方の武将とその家来たちまで面倒を見てくれるなんて!
(見つかったら家康に怒られる危険があるのに!)
清正も宗茂のことをとても尊敬していて、心の底から助けたい、力になりたいと思いました。
宗茂は九州を出る時に、自分が持っている城内の財産をすべて家臣に振り分けて、自分は無一文で、清正のところへ行くことにしました。
清正に助けられて家臣と共に過ごしていた宗茂は、2年が過ぎたころに「京に出たい」と清正に伝えます。
宗茂は、清正にずっと甘えているわけにはいかないし、自分の身の振り方を考えている時でした。
清正は、気持ちが分かったのか、止めることなくお金も渡してあげて宗茂を送り出しました。
宗茂は家来を20人ほど連れていきました。
残った家来たちの面倒は、清正が見てあげました。
宗茂は清正に、とっても感謝しました。
宗茂は、とても愛される人物だったことが伝わってきます。
そして京に出た宗茂は、清正からもらったお金が底をついてしまいました。
無職ですから、本当の貧乏生活の始まりです。
家来たちは、なんとか食いつなぐために、物乞いまでしながら、宗茂を支えようと必死に頑張ります。
家来たちの無償の愛です。シンプルに宗茂のことが大好きだったのだと思います。
そしてまたしばらくすると、宗茂は、江戸に出ます。
ここでも寺にお世話になりながらの貧乏生活は続きました。
ある時、徳川秀忠(2代目)の耳に宗茂の噂が届きました。
秀忠は、宗茂の生き様を知って、すぐに気に入りました。
秀忠は、宗茂のような、かっこいい生き方をしている人が好きだったんですよね。
こうして、秀忠に召し抱えられるようになった宗茂は、奥州で1万石を与えられたのです。
(宗茂の生き方は間違っていなかった!無職脱却!)
その4年後、3万石に増えました。
そしてついに、20年を経て元の九州の領地、柳川をもらえることになったのです。
しかも、かつてとほぼ同じ11万石。
「これで、離れ離れになってしまった家臣たちと一緒に暮らすことができる!」宗茂は喜びました。
関ヶ原の合戦で徳川家康に敵対した大名で、いったん没収された元の領地に、
しかもほぼ同じ禄で戻ったというのは立花宗茂一人である。
こうして、宗茂は、かつての家臣たちを呼び戻し、みんなで生活をしました。
みんな宗茂が大好きですから、あっという間にお城は家臣たちでいっぱいになりました。
一緒に暮らせることになった家来たちもうれしくて仕方ありませんでした。
こうして宗茂は、見事に大名に返り咲き、自分が育った領地で養生しながら、74歳の生涯を終えました。
立花宗茂という人物には、本当にたくさんのかっこいいし、感動するエピソードがたくさんたくさんあります。
今回、とても書ききれなかったので、別に書くことにしました↓✨
立花宗茂という武将の絶対に惚れちゃうエピソード集★家臣号泣の理由とは?
この人は、苦しいこともいっぱいあったけれど筋を通した生き方で、最後は、美しく返り咲きました。
「義」に反することはしない。
「感謝」と「謙虚さ」をずっと持ち続けていました。
家臣、領民からの信頼はとーーーっても凝固なものでした!
この厳しい時代でも、こんなにきれいな生き方ができた人物がいたのですね。
大河ドラマの主人公にピッタリだと思います!どうかやってくださいーーー!!NHKさーーーん!
🐈歴女になるためのお勉強🐈