こんにちは🌟
戦国時代大好きよよちち🐨です🏯
さて、今回ご紹介するのは、転職王であり、築城名人な藤堂高虎(とうどうたかとら)です⚔✨
転職を繰り返しスキルアップ、足軽から大名へ昇進。天下人豊臣秀吉や、徳川家康にも認められた戦国武将「藤堂高虎(とうどうたかとら)」を紹介します。
目 次
1556年に次男として誕生し、幼名は与吉(よきち)。後の藤堂高虎です。
藤堂家は滋賀県の武士兼農民(土豪どごう)で、父・藤堂虎高(とうどうとらたか)が、三井家(現:三井財閥)に婿養子入りし、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)に仕えていましたが、その後勢力を増してきた浅井家に転職し、浅井長政の家臣となりました。
(🐨武田軍→織田軍ってことだね)
高虎は浅井長政軍の足軽(あしがる)として働きました。
足軽は、雑用や土木作業、戦の準備、歩兵など、何でもこなさなくてはならない平社員です。
主君の長政は、民、家臣、主君から大変慕われていました。
よよちち🐨も大好きな武将です✨
画像:浅井長政
1570年14歳。戦にデビューします。
上司の長政が織田軍を裏切り、敵だった朝倉義景(あさくらよしかげ)軍に加勢!!
それが、有名な朝倉義景&浅井長政軍VS織田信長&徳川家康連合軍の激戦「姉川の戦い」です。
🐨デビュー戦がいきなりの大きな戦💦
高虎にとっては、かつての味方と闘うことになったということになりますね。
高虎は身長188㎝、体重110㎏の巨漢を活かして勇猛果敢に戦い、デビュー戦で見事に敵の首を取りました。
長政からデビュー戦の活躍を評価され「感謝状」を貰うことができました。
喜びもつかの間、高虎は事件を起こしてしまいます。
同僚とのささいな喧嘩から、相手を殺してしまい逃走します。。。🐨え。。。最悪じゃない??
これから高虎はどうなってしまうのか。。。
「義景・長政」連合軍VS「信長・家康」連合軍による戦火の中、転職活動!!
藤堂高虎といえば、主君をコロコロ変えた武将ってイメージがありますよね🐨
逃亡後の上司は、長政の家臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)。
1573年17歳。逃走生活を終え、長政軍に再就職しました。
上司は阿閉貞征です。
ところが、今度は貞征が主君・長政を裏切り織田軍に寝返ったのです。
高虎はまた織田軍として戦う事になりました(織田軍→朝倉軍→織田軍)。
この裏切りがきっかけで、長政の居城「小谷城」が孤立し(小谷城の戦い)浅井家は滅亡してしまいます。
高虎は貞征を見限って就職活動です。
次の上司は、織田軍に降伏した元長政の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)。
員昌は、信長から重臣・明智光秀による「丹羽八上城攻め」の救援という重要任務を命令されましたが大失敗。
光秀軍は退却を余儀なくされてしまったのです。
主君信長はこの失態を許さずに、員昌は強制隠居(クビ)させられました。
上司がクビになったので、気を取り直して再び就活。
🐨とほほ。。。人生色々あるよね💦
画像:磯野員昌
次の上司は、信長の右腕・織田信澄(おだのぶずみ)。
「現世の面接でも絶対に教えてくれない事」、それは上司の信澄は超パワハラ上司だったのです。
異常なほど残酷な暴君として有名で、周囲からは「早く死んでくれ」と言われていたらしい。。。
信澄と高虎は相性が悪く、嫌がらせをされたり、戦で活躍したりしても給料を上げてくれません。
🐨最悪な上司。。。
高虎は、無能なパワハラ上司は早々に見限り、次に期待してまたまた就活。
今までだっていろいろ乗り越えてこれたんだ♪って感じかな🐨
運命の上司に出会います。
それは、信長の家臣・羽柴秀長(豊臣秀吉の異父弟)。
1576年20歳。
転職早々活躍します。
再び光秀の「丹羽攻略」に参戦し大山城の落城に成功。
地元の有力人「長沢氏」を討ち取るなど大活躍し300石の領地を貰ったのです!
その後、秀長から厚い信頼を受けて、高虎も秀長を慕っていました。
🐨良い上司に出会えてよかったね✨
やがて2万石の大名へ昇進し、朝廷から「従五位下佐渡守(じゅごいげさどのかみ)」、一般大名では最上位の官職という名誉ある職位まで昇進したのであります!
画像:羽柴秀長
1591年38歳。
長年尽くした秀長が病気でこの世を去り、深い悲しみに陥りました。。。。
後継ぎに、秀長の甥(姉の息子)、13歳の羽柴秀保(はしばひでやす)が就任し、高虎は若い主君の支え役(後見人こうけんにん)として尽力します。が!!また悲劇が起こったのです。
秀保が、天然痘か麻疹などのウイルスに感染し、17歳の若さでこの世を去ってしまうのです。。。
高虎は2度の深い悲しみに耐えられず、出家して高野山に入ってしまいます。。。
画像:高野山
上司は、天下人・豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。
秀吉は「高虎が出家した」と聞き、優秀だった高虎を惜しみました。
家臣の生駒正親(いこま ちかまさ)に「高虎を説得し武士の世界に戻せ」と命令しました。
高虎は親正の説得に応じ秀吉軍に就職しました。
出家した期間は1~2年位と思われますが、ブランクがあってもとすぐに、秀吉から愛媛県7万石の大名を任され、更に、朝鮮出兵では水軍殲滅(1597年高虎44歳)させ、褒美として8万石の大名に昇進したのです。
やがて秀吉が病床に入り、その頃から豊臣家臣団の派閥争いが激化し内政は混乱。
高虎は派閥争いに嫌気が差し、秀吉の重臣・徳川家康へ今後のことを相談しました。
秀吉亡き後は家康に転職することを決めてたのです。
画像:豊臣秀吉
1598年45歳。徳川家康のもとに転職し20万石大名へ。
天下人秀吉がこの世を去ってしまいました。
後継者に豊臣秀頼が就任すると、上司の家康は豊臣家に反旗をひるがえし、天下取りを目指します。
高虎は、会津討伐、河渡川の戦い、毛利元就の一向一揆の鎮圧、天下分け目の関ケ原の合戦では、大谷刑部、石田三成と戦い、裏では敵軍の寝返り工作など、数々の調略を成功させるなど大活躍し20万石の大名になりました。
画像:徳川家康
1608年55歳。
家康の重臣へ、22万石の別格譜代大名(べっかくふだいだいみょう)に。
家康から頼まれた「江戸城改築工事」の成果を高く評価され、22万石の大名になり、家康の重臣(重要な役職)になったのです。
高虎は中途入社(外様とざま)でしたが、家康への厚い忠義と、才能や人柄を高く評価され、譜代大名(ふだいだいみょう・将軍の血族や、代々仕えてきた大名)と同じ扱いを受けることになったのです。
これを別格譜代大名(べっかくふだいだいみょう)と呼びます。
🐨高虎の転職生活もこれにて終了です🐨
1614年61歳。
天下人家康と涙の別れ。
家康からは「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と命じられ、大坂冬の陣、大阪夏の陣、長宗我部盛親(もりちか)との戦いなどで活躍し、家康の天下統一に貢献しました。
その後家康は、病床に入ってしまいます。
主君の死に立ち会う事が許されるのは、血族や限られた重臣だけでしたが、高虎は枕元に座る事を許されていました。
家康にはどうしても伝えたいことがあったのです。
高虎はその後、後継者の徳川秀忠、徳川家光を支え、天海(大僧正)らと共に、内政、街開発、地方農地開発、寺・社の復興に尽力し、天下平定と江戸の発展に貢献し32万3950石の大名になりました。
1630年、享年75歳。
土木工事の時に汚水に浸かってから、喉の痛みや下痢が治まらず原因不明の病気になり、遂には失明してしまいました。
治療の甲斐なく、自宅(現在の千代田区和泉町)で亡くなりました。
足軽デビュー後に事件を起こして逃走した時の話。
愛知県豊橋市の街道沿いで「吉田屋」という餅屋を見つけ空腹を凌ぎました。
店主に「実は文無しである」と謝罪したところ、「お代は出世払いで良い、親孝行しなさい」と言われ、土産の餅まで貰ったのです。
高虎は店主の慈悲深さに感激し、後に大名に出世してから、参勤交代の途中で「吉田屋」を訪れ、店主へあの時の「餅代」を払い、丁重にお礼をしたそうです。
藤堂家の旗印は、この餅エピソードの「白い餅」と「城持ち」をかけて、「白餅三つ」にしたそうです。
画像:高虎旗印
🐨すごく心に響いたんだろうね。
高虎の身体は、鉄砲で撃たれた跡(銃創(じゅうそう))や槍・刀傷だらけ。。。
右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く、左足の親指も爪が無かったそうです。。。
戦国時代を生き抜くのは過酷。。。🐨
家康は病床の枕元に藤堂高虎と天海大僧正(てんかいだいそうじょう)を呼びました。
家康は高虎の手を取って
「あなたがいなければ天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝している。
心残りはあなたと私は宗門が違うから、来世で会うことができない。それを思うと辛く寂しい」と家康が涙を流したそうです。。。
これに対して高虎は「私はまったく至らない者でしたが、上様と同じ天台宗に改宗いたします」と涙を流しながら答えました。
そして後に高虎は、天海に頼んで天台宗に改宗し「寒松院(かんしょういん」」の法名を授かりました。
この法名が高虎の墓がある現在の寺の名前になったのです。
🐨家康と高虎はとっても信頼しあえる仲だったのですね。
1616年63歳。
病床の家康は最後に、「三人(家康、吉宗、慶喜)ひとつ処に、魂鎮まるところを造って欲しい」と遺言しこの世を去りました。
高虎は自分の領地の一部・上野公園を譲り、そこに天海が「東照社(とうしょうしゃ)」、「天台宗東叡山寛永寺寒松院(てんだいしゅう・とうえいざん・かんえいじ・かんしょういん)」を造りました。
その後、徳川家光(いえみつ)により「日光東照宮」と「東照社」が造替され、現在の姿になったのです。
そして朝廷より「東照宮」という、宮号(みやごう)を授けられました。
画像:上野東照宮
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高虎のお墓は、現在の東京都台東区上野恩賜公園「東叡山寛永寺 寒松院」にあります。
敵将である・大谷吉継(おおたによしつぐ)は高虎軍に追い込まれてしまいます。
大谷吉継は「もはやここまで。。。」と自害することを決意。
自分の信頼する家臣・湯浅伊助(ゆあさごすけ)に「私の病み崩れた醜い顔を敵に渡すな」と言い残し自害。。。
(関ヶ原の合戦で自害したのはこの大谷吉継だけでした。よよちち🐨大好きな武将です。詳しくはコチラを是非↓
🌟大谷刑部(大谷吉継)の人生が感動した話★歴女人気の石田三成との感動エピソードなど🌟)
しかし五助が吉継の首を埋め隠しているところを、高虎軍・高虎の甥(高刑たかのり)に見つかってしまいます。
五助は事情を説明し「私の首を差し出すのでどうか他言しないで欲しい(ここに吉継の首があることは言わないで)」とお願いしました。
それを聞いた高刑は、「分かった」と、男と男の約束を交わしたのです。
高刑は徳川家康に吉継の部下の五助の首を差し出すと、家康から吉継の首のありかを追求されます。
しかし高刑は「吉継の首のありかは、男の約束なので命に変えても言えません」と口を割らなかったそうです。
(🐨この時代、ボスにこんなこと言うのは自殺行為ともいえるのに。。。男の約束を守った高刑かっこいい!!)
その話を聞いた家康は怒るどころか、その男気に感嘆し褒美まで与えたそうです。
(🐨家康、いいとこあるじゃん!!)
高虎は、五助と吉継の2人を敬い、敵将ではあったけれど、大谷吉継の墓を建ててあげたのだそうです!!
🐨このお話、ホント感動するよねーー泣けるわーーーみんないい人。
画像:大谷吉継
身分の低い武士兼農民の家柄に生まれ、足軽から大名にまで上り詰め、2人の天下人に認められた戦国武将「藤堂高虎」。
彼が戦国の世を生き抜いた「コツ」は、「転職」でした。
しかし戦国の世の転職は命がけでした。。。
再就職を阻止するための根回しをしたり、悪評を流したり、転職前に殺してしまう事も当たり前だったのです。
そんな世界で高虎は、度重なる上司の寝返り、クビになった上司、パワハラ上司と出会い、彼らを反面教師として学び、忠義を尽くせる人を探し、転職を繰り返します。
🐨これは、頭の良さとか、先を見る力、武力、決断力を持っていたってことだと思う!
自分の人生のために早々に見限る勇気と命を守る術を持っていましたのです。
もしかしたらポンコツ上司の下では本領を発揮したくなかったのかもしれません。
やがて運命の上司・秀長、秀吉、家康に出会い、高虎は厚い忠義と、堅い義理、そして命をかけて主君を守った事を、満身創痍の身体が物語っていました。
高虎の実力は、豊臣秀吉、徳川家康と2人の天下人に認められる程、転職により才能を開花させたのです。
エピソードでは書きませんでしたが、築城の名手としても有名で、生涯で携わった城は江戸城を始め、全国に20件もあるそうです。
恵まれた巨漢と人を見る目で戦国の世を生き抜いた、忠義、義理、人情に熱い武将でした。
あと、どうしても言いたいことが。。。
子孫が、現在も活躍しております。そのお方がこちら↓↓
ピン芸人「ゆってぃ」
🎶ちっちゃいことは気にするな♪ワカチコワカチコ~🎵です。
🐨(笑)!!!!
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↓これを見ると好きな武将が見つかりやすいかもーー💓
コチラの転職王も超絶面白いです↓↓