こんにちは★
歴史に浸る時間が大好きなよよちち🐨です★
最近は、歴史の本を読んだり、映画を観たりしている時間に幸せを感じています。
歴史って昔のことだから、100パーセント確実ではない、というところもまた夢中にさせるところですね。
だから、当然いろいろな説があるし、妄想したり、推理するのがまた面白いんですよねーーー
ロマンです!ロマン💛
よよちち🐨は、甲斐の国出身。武田信玄大好きです★
その武田信玄の戦友上杉謙信についてもいろいろ調べてみました。
ということで、今回は 謎が多い上杉謙信 のお話★
目 次
上杉謙信は1530年1月21日、越後守護代・長尾為景の四男・虎千代として生まれました。
謙信はもともといいとこのお坊ちゃまです。
幼名の虎千代は庚寅年生まれのために名づけられました。
子供のころは暴れん坊で両親は困って寺に預けることにしました。
そこでも暴れん坊だったのですが、父親の死以降は、おとなしくなって勉強熱心になりました。
学問、書道、兵法等をまじめに学ぶようになって上杉謙信の土台が出来上がっていきました。
虎千代は、いいとこの子供ですから、19歳で家督を相続します。
兄もいたのですが、兄は病弱だったし、ほかにもいろいろ不満を唱える人も多かったので、戦上手で信頼も人望もある弟の景虎(虎千代から改名)が跡継ぎとなりました。
その3年後に兄は病死。
そして、景虎は破竹の勢いで越後を統一させ22歳で国王となりました。
川中島の合戦は、甲斐国の戦国大名・武田信玄と、越後の戦国大名・上杉謙信との間で、
北信濃を巡って戦われた合戦です。12年間、5回も川中島で戦いました。
第1戦目となったものは、1553年で布施の戦い、または八幡の戦いと呼ばれています。
第2戦目となったものは、1555年、犀川の戦いと呼ばれているものです。
第3戦目は上野原の戦いと呼ばれるもので、決着はつきませんでした。
第4戦目になるのが一番大きな戦いとなり、川中島の合戦というと、この第4戦目のことを指すことがほとんどです。1561年に戦われ、八幡原の戦いとも呼ばれています。
第5戦目が最期の合戦になります。1564年、塩崎の対陣と呼ばれているもので、双方にらみ合い、決着がつかないまま退陣となったのです。
※詳しくは後に記載しています※
信長の勢力が大きくなっていったころ、「信長包囲網」というものが敷かれました。
この包囲網の参加勢力は、武田、北条を初め、浅井、六角、本願寺など、信長の領地を取り囲む殆どの大名が参加します。
足利氏に頼まれた謙信も参加することになって上洛します。そして、織田信長と盟友関係にある畠山氏が治めている七尾城というお城を攻めます。
難攻不落のお城で謙信でさえも攻めあぐねいていました。
しかし、織田軍の作戦変更のため、敵が退陣しました。そこに謙信が追撃して撃破!
謙信は次の戦(何の戦に向かう予定だったのかは現在でも不明)に向けて作戦を練っている最中に急死してしまいます。享年49でした。
死因はいろいろな説がありますが、定説だと脳卒中とされています。
(お酒の飲みすぎ説・塩分取りすぎ&不摂生・更年期障害(婦人病)?まで様々)
遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封しました。
謙信は急死だったので、跡継ぎの事を何もしていませんでした。
そのため、上杉家の中でいざこざが起きてしまって、上杉家の勢力は小さくなってしまいました。
結局家督を継いだのは、「上杉景勝」謙信の姉の子供でした。
謙信VS信玄
この川中島の戦いは、歴史をよく知らない人でも聞いたことはあると思います。
(よよちちもこれはなんとなく知っていた)
この戦いは全部で5回もしているのに、勝敗が付いていないのです。
歴史音痴時代のよよちちは5次まであったなんて知らなかったし、勝敗がついていないのに何でこんなに有名なんだろう?と思っていましたが、知っていくと「川中島の戦い」は、歴史に残る名勝負だった、と思いました。
あんまり詳しく書くと長くなっちゃうので、1番有名な4次の戦いに焦点をあてて書いていきます★
1次から3次は、ほぼにらみ合いで実戦はあんまり行っていませんでした。
4次の戦いは、なんと、ボス同士の一騎打ちがあったのです!!
この4次の戦いは、武田軍がだいぶ攻め込まれて劣勢となる形となりました。
というのは、今まで「私、失敗しないので!」な天才軍師山本勘助の策略が、謙信に思いっきり読まれていたのです。(キツツキ戦法で挟み撃ちする作戦)
武田軍は軍を二つに分けてしまっていたので、謙信の軍の数の方が多くなってしまっていました。
しかも、武田軍は少ない兵で「鶴翼の陣」という左右から挟み撃ちをする作戦でした。
謙信側は大きな「車懸かりの陣」で大群が回りながら攻めてきました。
(鶴翼の陣は車懸かりの陣にはあんまり通用しない)
これを見た武田軍はびっくり!!
作戦がすべて読まれた上で、しっかり作戦を練って攻めてきている謙信軍。
武田軍の薄い鶴翼の陣形はどんどん崩れていき、ボスの信玄のそばまで謙信軍は近づいて来ています。。。
信玄を守るために、総出で戦うことになります。軍師の勘助までも前に出て戦います。
武田軍の2手に分かれたもう1つの軍が来るまでなんとか踏ん張らなければなりません!
もう一つの軍は、あの真田家がいたので、戻ってきて戦いに加われば、謙信は軍を引かざるを得ない状況になりますから、そこまでなんとかみんなで時間稼ぎをして頑張る!!
そうなると信玄の周りは手薄になります。
そんな時に、戦場の中をかいくぐって信玄に向かって一直線に馬に乗って走ってくる謙信!!
謙信は、腰かけている信玄に3回刀を振りました。
信玄は軍配でその刀をすべて受けました。
「お主、なかなかやるのう。。。」と信玄。
その様子をみた武田軍の兵が謙信の馬に弓を当てて、謙信は去っていきました。
二人とも超かっこよくないですか?しびれるわーーー!
弓だの槍が飛び交っている戦場を、謙信自ら前に出て行って信玄のところまで行って、
信玄は腰かけたまま、謙信を待つ。
もうこの二人の覚悟とか、肝が据わっている所とか、この戦いにかけている事とか、腹を決めていることとか、ぜーんぶを表しているエピソードだと思うんですよね。
そして、少ない兵でなんとか時間稼ぎしていると、真田家の真っ赤な赤備え隊が到着します!!
それを見た謙信は兵を引き、4次川中島の戦いは終わります。
この時も両者が「勝った」と言っていて勝敗はつきませんでした。
でも武田軍は、弟の信繁や、軍師の山本勘助も失い、損失はとても大きかったのです。
信玄は今の山梨県と長野県を収める大名でした。
この2つの県には海がないので、今の静岡県から塩を買っていたんです。
当時の静岡県を治めていた今川家と、仲が悪くなって「塩止め」(もう塩送ってやんないよー)をされました。
この行為を知った謙信は「卑劣な行為だ!!」と批判しました。
長く続く川中島の戦いの最中に塩がないのは困ります。
塩って大事なんですよね。戦の最中に塩がないのはもう大大大ピンチ!!
人間は、塩がないと健康な体を維持できませんし、戦に行くとき、食べ物が傷まないように塩を遣ったりもしていました。
謙信にとっては、信玄(武田軍)が弱るのは好都合なはずですが、謙信は信玄に
「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」と言って「塩を送った」のですね。
なんと!かっこいいいーーー!というお話が伝わっています。
が、、、
現在は作り話ではないか?とされています。
今川家が「塩止め」をしたという記録も、謙信が塩を送ったという記録も残っていないそうです。
でもそれが、作り話であったとしても、謙信の性格からこの話が生まれたのであれば、謙信は本当に人格者だった、ということが分かるなー。
信玄は信長征伐の最中に病気になって死んでしまいます。
謙信は涙を流して悲しんだそうです。
信玄は遺言を残します。
用意周到だった信玄はたくさんの細かい指示を残しています。
その中のひとつに、信玄は息子である勝頼に
「何か困ったことがあったら謙信を頼るように」と伝えています。
謙信は真の武将であるから、幼い勝頼を無下にするようなことはしないはずだ、と。
信玄と謙信の間には、戦を通じて信頼関係ができていました。
お互いに認めあっていました。
なんか、かっこいいですよねーーーー!!
この二人は荒れまくっていた戦国時代の中で、「義」という物を見せてくれました。
↓これ、分かりやすいし、すごい面白かった💓
謙信は、生涯独身で、側室というものも持たなかった。
そのため、養子を迎えるのですが、それが全員「美男子」だったということ。
男性としか性交渉をしなかった、と言われています。
戦国時代の武将は同性愛者が多かった、なんてよく聞きますが、証拠などはほとんどないので、現在の人が面白く脚色を付けているのだと考えられます。
信玄と謙信が恋人同士だった、なんてことを書かれているのもありましたが、まぁあり得ないと思います。。。
ちなみに、生涯独身だったのは、仏教の「生涯不犯」を守るためだったという説もあります。
「生涯不犯」とは一生独身を通す、というものです。信仰心があつい謙信っぽいですよね。
謙信は小柄だったと伝わっています。
それと、毎月、同じような時期(10日前後)に腹痛を起こしていた。
生理痛があったのではないか、と言われています。
10日前後は、戦の最中でも兵を引いて城にこもったりしていました。
当時ですから、今のようによく効く鎮痛剤もないですからね。
個人差はありますが、生理痛はひどい人は転げまわるほど痛いといいますから、何も考えられなくなって戦をやめてしまう、ということも考えられます。
上記で書いた「同性愛説」にもつながりますが、男性としか性交渉をしなかったのは女性だったから?ということにもなりますよね。
あと、外国では、謙信は女性とされています。
当時のスペイン国王のフェリベ2世の家来(ゴンザレス)が来日した時に、スペインへの報告書の中で
謙信のことを「上杉景勝の叔母」と書いています。
景勝は謙信の姉の子供です。謙信が男性であれば、叔母ではなく「叔父」のはず。
これも女性説を裏付ける1つとされています。
謙信の戦旗は「毘」です。
毘沙門天の「毘」
謙信は自分のことを毘沙門天の化身(生まれ変わり)だと思っていました。
大河ドラマの「風林火山」ではGACT(ガクト)さんが演じました。
当時、「こんなの謙信じゃない」とバッシングされてショックだった、とGACTさんが言っていました。
でもよよちち的には、神秘的な感じがすごい良かったけどなーーー。
ドラマの中でも毘沙門堂にこもってよくお経を読んでいました。
自分は「神」であるから、戦いに敗れることはない、と思っていました。
「人間」と「神」の戦いなのだから。「神」が勝つにきまってる、と。
確かに神がかった戦を何回もしていますし、なぜか謙信には鉄砲の球や、弓矢が当たらなかったりします。
そういうエピソードも残っています。
現に、川中島の戦いでも、謙信の首をみんなが狙っているのに、矢に当たることなく信玄の元までたどり着いていますからね。
上杉謙信は、領地の奪い合いの戦国時代に生きていながら、「欲」というものがない人物でした。
なぜ、戦うのか?
それは、頼ってきた人を救うため、誰かを守るため。「義」のためでした。
決して自分の「私利私欲」で戦を起こすことはありませんでした。
謙信は、自分は毘沙門天の化身だと信じていたので、「人間の欲」というものをとても嫌いました。
じゃ、なぜ川中島の戦いとかやってんの?と疑問に思うと思うのですが、
長野にいた村上氏が信玄に攻められて、謙信に「助けてください」とお願いしに行ったから、なんです。
謙信は、頼まれると断らないのです。
それで、信玄と戦うことになったんです。
自分の領地を増やしたい、とかそういう理由で戦っていたわけではないのです。
上杉謙信と武田信玄のエピソードは興味深いものがたくさん残っています。
かなり美化されて現代に伝わってはいると思いますが、よよちちはそれを信じるの(笑)
かっこいいから(笑)♪ ふふふ。
他にもかっこいい武将がたくさんいます★
⚔関連記事↓⚔